直観像記憶/映像記憶について

 

直観像記憶/映像記憶とは
直観像記憶/映像記憶とは ・眼に映った物を、みたままその通りに記憶すること。視覚的な記憶。また視覚的な記憶能力も含まれる場合がある。 ・具体的な例としては、サヴァン症候群の様な一瞬見た映像を緻密にスケッチするなどが挙げられる。俗に言...

・リンク先参照。

・人間の大人によくある「理解しないとできない/やりたくない」というのは言語機能に依る記憶に依存しているからだと思う。だとするなら、記憶のスタイルは物事に対する姿勢に関連することになる。実際幼い子供は理解よりも「模倣」に近い行動を取る。親のマネをして立とうとする、親と同じ言葉を発声してみようと試みる、など。「お手本」を「わからないままに」記憶して、その再現、と言ったところか。

・瞑想がどうなって直観像記憶のトレーニングになるのか。
瞑想も色々あるが、ポピュラーだと思われる数息観や内面を見つめて反応しない系のものだと仮定する。この場合は常日頃自動的に活動する認知/思考をいくらか沈静化する作用がある。集中しようと試みる行為はある意味瞑想に似ている。こうなると「意味」の分野は静かになり、その分直観像記憶が使用される、かもしれない。知らん。

もっとも有り得そうなのは、シンプルなシンボルを目に焼き付ける→目を閉じてそれを思い浮かべるという直観像記憶の訓練と同じものが、一部では瞑想として既にあることだ。同じことを指している可能性。まぁ多分どっちでも効果はあるだろう。

・直観像記憶が子供にしか無い点については、個人的には「脳の他の部分が発達するから使われなくなる」だけだと考える。直観像記憶は脳の本能的な部分が関わっているとされているが、別に大人になったらそこが縮むわけじゃない。別の部分が発達していく。「比率として」、直観像記憶で使用する部分は小さくなるだけで。恐らく失われるわけじゃない。

見方を変えれば、頭の良さだとか、問題解決だとかもやり方は一つじゃない、とも言えるだろう。世の中普通とされることに苦労している人もいるが、根っこから同じになろうとするよりは上っ面だけ同じになろうとしたほうが自分を活かせるのかもしれないな。

・言語機能にまつわる記憶の仕方、つまり私達の普段の記憶は、基本的にいくらかの理解をする必要がある。というか、見ながら理解して、「理解したこと」を記憶するのか。その後は「知ってることか、知らないことか」の判断だけで済む。

よく考えてみれば、見たことがあるかないか、なんて気にしないな。やっぱり知ってるか、知らないかだ。自室に見慣れないものがあった場合は警戒するだろうが、それは見たことがないから、ではないだろう。「知らないものがある」と感じるはずだ。

厳密に言えば、少なくとも大人の「理解」は理解ではなく既知のイメージに「当てはめている」としたほうが近いと思われる。だから勘違い、思い込みが起きる。

子供の勘違いや思い込みも「頭が固い+他を知らない」であり、これはこれで既知イメージにあてはめている。直観像記憶は本能的なものだとされているが、言語機能による私達の普段の記憶や理解の仕方も結構野性的だと思う。

・直観像記憶との明らかな違いは「理解」が必要であること。問題はその「理解」は実質的には「自分がわかるような解釈をする」ことに過ぎず、実は「理解」じゃないことだろう。「解釈」としたほうが正しいか。

この「解釈」が我々は無意識的に行うため、「解釈をした」という自覚を持たない。認知スキーマとかの段階。このため「理解した/見た/知った」という間違った自覚を持つ。

それが時に認知バイアスとして問題視されるような勘違い、思い込み、判断ミスなどの「間違った実行」になる。認知そのものは思考レベルではないため、知っていても防ぐの難しい。見直すのが関の山かも知れない。

一方、直観像記憶は「理解がいらない」と言えるだろう。見た、覚えた。おしまい。表現/伝達機能が死んでるが、個人で使う分にはこれで特に問題もないだろう。言葉を持たない動物であれば尚更だ。

・一般で言われるようなトラウマやフラッシュバックの類は瞬間的な記憶の想起に近いと思われる。彼らの個人的な体験であるフラッシュバックの元ネタの「イベント」は、明らかに情報量が多く、「全部」を一瞬で思い出しているようには思えない。
象徴的な場面、ショックだった一瞬などを思い出しているように、話を聞いていると感じるのだが。

これ直観像記憶じゃないだろうか。インパクトが強い、主観的には危機を感じるようなせいで本能的な記憶の仕方=直観像記憶が行われ、滅多に使わない=上書きされることがほとんどない領域に記憶が格納されてしまったのではなかろうか。
つまり、本で言えばブックマークなどのような役割を直観像記憶がしていないか。それを元に記憶が「再現」されていないか。

っていうか、写真見て、それをきっかけに当時のことを思い出したりするだろう。あれと一緒だと思う。「写真が頭の中にある」ってだけで。

そうだとしたら、直観像記憶を使いまくって上書きするなり押し流すなり存在価値の比率を薄めればいいんじゃないかと思わなくもないが。付箋だらけの参考書って、1つ1つの付箋は目立たなくなってくだろう。

また、よく見かけた「気持ちも感情もその時のままに」についてだが、恐らくこの部分は「記憶に対しての再体験」であり、記憶そのものではないと思う。確かに「感情記憶」なる、感情だけの記憶はあるらしい。

「感情だけのフラッシュバック」も存在が示唆されてはいる。ただ、今回に限って言えば、直観像記憶、「鮮明な記憶」にたいして「改めてそう感じている/思っている」のではないだろうか。つまり、感情、気持ちはその時に改めて発生している、紛うことなき新鮮なものではないのか。

ってか本来は情報/刺激に対しての身体的な反応だしな、感情って。

・性格の16分析のモデルになったカール・グスタフ・ユングのタイプ論、内向か外向+思考、感覚、感情、直感というものがあるのだが、「思考」がメインの人の対(苦手となる機能)は感覚か直感になるとされている。今回の言語機能に依る記憶と直観像記憶の対比とも通じるかも知れない。

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