・腹いっぱい食べた直後に次の食事は何が良いか聞かれてもぱっと出てこないだろう。今の自分に必要ないからだ。
これから寝ようって時にコーヒー淹れられても迷惑だろう。今からやろうとしている「眠る」ということに於いて邪魔だからだ。逆にこれから徹夜だって時には感謝も出来よう。
考えられるか考えられないかは主観により、迷惑かありがたいかは主観に拠って評価される。主観と言っても状況、環境、感情、経緯、記憶などなど色々な要素が含まれており、自由とも言い難いが。
・大体の場合は正しいとも言える。寝る前にコーヒー淹れられてありがたがれって言われてもな。自分の都合、立ち位置から見ての物事の評価はできる必要があるだろう。社会の最小単位は人、そしてプレイヤーとしてみれば「自分」が基礎となるのは全く自然だろう。
ただ、正しいといえば正しいのだが、それは基準がそれだからという理由であり、物事を測るのに「正確」ではないことも多い。
ともかく、主観は物事を測る定規のようなものだ。客観で見る時も、俯瞰で見る時も、所詮は主観の定規で測った結果を参考にしてのエミュレートに過ぎない。
この定規がゴム紐でできてんのかってくらいに伸縮しやがるから迷惑だって話。
体感時間について
・体感時間はかなりブレる。集中の度合いによって変化する事が多い。
ADHDが時間を守れない理由、そして行動を「待てない」ため衝動的となる理由が体感時間そのものが定型発達者と違うからという説もある。ただ、これらはデフォルトの体感時間の流れの話だ。今回言いたいのは、デフォルトがどうあれ体感時間は可変するということであり、この点は定型発達者でも変わらない。まぁ多分ADHDの方がブレ幅大きいと思うが。
例えば集中状態においては体感時間は変わる。大抵の場合好きなことをしているならあっという間に過ぎる形をとる。これは現実の時計より体感時間の方がゆっくりと流れたことになる。リラックス状態。
反対に、辛い目に合っているときには現実の時間はゆっくりになる。相対的に体感時間は加速しているということ。緊張/警戒の状態。
他人に待たされる五分はイライラしてくるが、ぼへーっとしている五分は一瞬である。まぁ待たされる筋合いの有無にもよるが、今回ここで注目すべきは同じ五分でも「体感的に全く違う」ということだ。
これらは時間感覚が脳によって作られるものであり、緊張や弛緩、集中の度合いなどで変化するからだ。一部の活動量が上昇したり、脳内物質が分泌されたりで。
・誰にだって経験があるだろうこれらは、自身の行動・経験の過大・過小評価に繋がる。要するに、「それに使った時間」が現実とかけ離れて感じられる。
散々遊んでも体感時間的には足りずに遊び足りないし、少し頑張った程度で血の滲むような努力をした気分になり、その上で報われない、と不貞腐れたりだとか。また、レオナルド・ダ・ヴィンチが手記に「頑張った一日は長い/立派に費やされた一日は長い」と書いたとかそんな話を聞いたことがある。どのような時に長くなるかは単純なものではないかもしれない。
イケア効果
・認知バイアス。自分が手間ひまかけた物の価値を過大評価する。特徴は「自分にとってはこれだけの価値がある」ではなくて「誰が見たってこれだけの価値があるだろう」と思い込むこと。
「経緯」に依る主観の変化。
前提条件に依る変化
・マイ・フェア・レディの前身である『ピグマリオン』の作者、ジョージ・バーナード・ショーは、俳優兼劇場主のトゥリーが変更した結末について、「君の結末は最悪だから、君は銃で撃たれるべきだね」と言った。
さぁ、どう思うか。バーナード・ショーは口が悪い? それとも、トゥリーの結末が余程ヘボかったのだろうか?
・トゥリーがピグマリオンに於いて変更した箇所は、現代でも演じられる『マイ・フェア・レディ』と同様にイライザとヒギンズが結ばれることを暗示した終わりだったらしい。これはヘボくないだろうと言えるね。
さぁ、どう思うか。バーナード・ショーは口が悪い? それとも、トゥリーが時代を先取りしていたのだろうか?
・この変更はショーにとっては許されないことだったらしい。後にイライザとヒギンズが結ばれることがどれだけありえないことであるのか、著書の後書きで説明している。
さぁ、どう思うか。バーナード・ショーは口が悪い? それとも、トゥリーのやったことはショーにとってやってはいけないことだっただろうか?
・変更に憤慨したショーに、トゥリーはこう言った。「私の結末は儲かるんだから、君は感謝するべきだよ」と。ショーはこう返した。「君の結末は最悪だから、君は銃で撃たれるべきだね」と。
さぁ、どう思うだろうか。私はただの売り言葉に買い言葉だと思うが。
・さて、初めにニュースの見出しのような目を引く部分、次いで情報を小出しにしていったわけだが。事体に対しての認識は変化しただろうか。出来事自体は初めから変化していない。数十年昔の話だし。
どちらが悪かったのか、どう悪かったのか、もしも印象が変わったとしたら、それは読者の脳内での出来事であり、それを変化させたのは「追加された情報」が前提条件を刷新したからだ。
この流れ、新しいニュースに対して最初に騒いで、だんだん冷静になっていくネットユーザーで非常に多く見られるだろう。被害者が悪かったとか、捏造だったとか、そういった時に特に目立つ。
・ショーの主観ではピグマリオンは「作品」であるし、トゥリーの主観ではピグマリオンは「ビジネス」であったとも取れる。
・まぁ実際にショーは毒舌家と言われることがあるのだが。
メモ
・「あなたが一番影響を受けた本は?」
ショー「銀行の預金通帳だよ」
・錯視で特に言われていることだが、主観も大抵は「間違っているとわかった上でもそうとしか思えない」という厄介なものだ。「定規」が正しいってのはこういうこと。その上で正確ではないというのもこういうこと。
・主観でもう一つ厄介なのは、ご覧の通りに一定ではない上で、価値基準としては絶対であること。たとえその場でそうとしか思えない、それ以外考えられないと思った所で、違うことがある。さんざんこう言った経験を人間はするくせに、毎回毎回「それ以外考えられない」とか言っちゃうこと。経験が反映されないのは、多分それより前に「確定」しているんだろう。
恐らく湧くのはしょうがない。だからこそ、メタ認知とかマインドフルネスだとかの「主観から抜け出す/距離を取る/反応しない」のが有効となる。
・ちなみにここで言う主観に没頭している状態を、マインドフルネスの方面では「認知フュージョン」という。認知と融合している状態。好ましくはない。そして人間は、この状態でいることが大半だ、と言われている。
・人間は「今」の感情・発想を過大評価しているように見える。ADHDは特にこの傾向が強いと自分で言ってる記事も結構見かける。「『今』じゃなきゃいけない気がしてしょうがない」のだそうだ。まぁどの道主観の絶対視は万人共通だと思うが。
・主観は個人の価値観としては正しいが、「正確さ」においては俯瞰的な方が正しいだろう。