ADT:集中できないがADHDではない 1

・実は自分はADHDではないか、とか思ってる人は結構見かける。ADHDじゃなく、ADHDのような症状が出る場合がある。ADTと呼ばれる。

ADTとは

・ハーバード大学、精神科医のエドワード・ハロウェル教授が1994年提唱。彼は元からADHD、ADDの診断、治療を行っている人物。また、集中力と生産性についての研究も行っている。

彼のもとには、「自分はADHDかADDだと思う」と多くの人が訪ねてくる。その理由は「集中できなくなったから」だそうだ。

・集中できない彼らはいつも焦っていて、誰かに追い抜かれるのではないかと怯えており、次から次へと仕事をしているような人たちだった。まぁ、周りもそんなんだったら、休んだら追い抜かれるだろうな。

彼らと向き合う中で、現代社会特有の「環境」のせいでADHD/ADD同様の集中力低下の症状が出ると突き止めた。これをADTと名付けた。

周りからの絶え間ない要求や誘惑、出来事によって引き起こされ、私たちの頭を耳障りな騒音でいっぱいにします。

精神がこの騒音――シナプスのたてる、無意味なけいれんのような音――でいっぱいになると、脳は特定のものに対して安定した注意を向ける能力を失ってしまうのです。

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・ADT=注意欠陥特性。

・現状Wikipediaに記事が作られていない程度なので、残念ながら知名度はお察し。

・最初この兆候は目立たず、次第に酷くなっていく。通常は物事がうまくいかない、調子が悪いとこの段階で気づける。

ADTになる人の場合は、これに気づかず、普段どおりを維持し続けようとし、或いはうまくいかないからと尚更頑張ろうとし、限界が来ても文句を言わない。

・洞察に優れ、クリエイティブな才能があるとされるADHDとは違い、「そのような才能はない」とされる。

・厳密には特性というよりは「症状」と呼んだほうが正しい。ADHDとは違い当人固有の変えられない要素ではない。この症状の原因は、環境的なものだとされる。遺伝的・脳的な体質であるADHDとは違う。

この「環境」は暮らしや仕事を指す。特に速度と生産性を過剰に求める事において。これに応えるなら、無理をして頑張るしか無いな。確かに。

・これを「病気」とする場合もあるが、それは「心の病」としての扱い。

・多忙な現代における、焦点を向けるべきポイントが多すぎる日常的な過負荷に耐えかねた脳が、シャットダウンを初めている状態とされる。

・以上から、個人的にはうつ病に近い印象を受ける。特にADTの兆候に気づかずに「いつもどおり」を必死に維持し続けようとする辺りは、何件かのそれでうつになり、うつになった後もそうである人々を思い出させる。

・エドワード・ハロウェル曰く、これは恐怖時の生命維持機能が関与しているとのこと。つまりは「日常」が異常事態、緊急事態に常にさらされているようなストレス状態であるのが理由。

・一つに集中できないほど忙しく、すぐに決定/判断しなければならない。この心理による言動がイージーミス、注意力散漫、衝動性に見えても不思議じゃないだろう。

また、単純にマルチタスクはスペックが落ち、集中力も精度も下がるが、忙しければ自分からやっているかもしれないな。というかハロウェル教授の元を訪れた患者たちはこの傾向は相当強く出ていると思う。

ADTの症状

・朝は気づかない。原因が生活環境にあるため、気付けるとしたら日中に於いて。

・兆候としては以下

□深刻な集中力低下と原因不明の焦り、さらに、自分の人生がとても浅はかになってきたような気分を感じる

□1つのことに長い時間集中し続けられない

□気が休まらず、退屈、不満、イライラなどを感じやすくなる

□仕事から仕事へ、アイデアからアイデアへ、注意の先が飛び回りがちである

□考えるという活動をせず、衝動的に物事を決める

□仕事を終わらせられない罪悪感や、そもそもその仕事が自分に課せられたことに対する不満が頭から離れない

□メールチェックやSNS、ネットサーフィン、ゲームなどの“電子的なクスリ”への欲求が耐えきれないほど大きくなる

https://toyokeizai.net/articles/-/144226?page=2

・多く当てはまるほど要注意、だそうだ。

・休憩を取りたくない、休日に何をしたら良いかわからない、仕事をしてないと落ち着かない、少しでも生産性のあることを常にやっていたい、という精神状態の人間はいたりする。ADTにはなりやすいだろう。

・この状態は「警戒状態」にも受け取れる。実際のところは朝から晩までパニック状態なのを、当人は「バリバリ働いてる」とか思ってるのかも知れない。

与太話:狼少女

・ちょっと与太話でもしようか。生まれてすぐに森に捨てられた赤ん坊が狼に拾われ、育てられたというケースが実際に数件ある。結構昔の話だけどね。今でもあるかもしれないが。ああ、海外の話。

女児が妙に多いわけだが、「彼女たち」は狼の庇護の下にそこそこ育った後、人間に発見され、そして「保護」される場合がある。だが私が知ってる限り、その後数年で死ぬ。

彼女たちは保護され、そして「社会復帰」に向けて「教育」を受ける。例えば食事をする時はフォークとスプーンを使え、せめても手を使え、皿に顔を近づけて直接食おうとするんじゃない、みたいな。これらが絶望的なストレスで、死因はそれではなかったのか、なんて話がある。

・他にもゴリラに育てられた少年、狼に育てられた少年が同様に保護された話を知っているが、彼らは人間社会に戻っている。性別の違いだろうか? 違うと思うね。

彼らの場合、5~6歳以降にDVの父親から逃げ出した、或いは親に売られた後に買い取り手が寿命で死んだなどであり、それまでは人間社会で生きた経験があったからだろう。

・ただそれでも、狼に育てられた元少年が言うには、「戻りたい」そうだ。でも、もう狼達は仲間として受け入れてくれそうもない、と。

自分に人間の匂いが染み付いてしまい、近くまで来てくれる気配はあるが、それ以上は決して近づいてきてくれない、と。

・まぁ要するに、人間社会で人間として暮らすのは動物目線ではどうやら結構きついことらしい。生憎と人間自身が動物なわけだが。

ペットは違う。人間社会でペットとして暮らしているからだ。犬や猫にフォークとスプーンの使い方を教えようなんて飼い主は滅多にいないだろう。皆無であることを願うが。

私達は、「基本的には」、人間社会で人間として暮らすことを無理とまでは感じない。死ぬレベルのストレスとは感じない。別の世界に逃げ出したいとまでは感じない。

どのくらい感じないかと言えば、一部酷いのは実際に何らかの理由で「無理」になってしまった人に向かって「心無い励まし」が言えてしまうくらいだ。

これは平気なのではなく、麻痺しているのかも知れないな。或いは、そう思ってしまってはいけないと自らに律しているのか。そう思ってしまっては、それこそ生きていけないから。いいや、「生きたくなくなってしまう」のかな。わからんね。

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