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なぜ小さな事に達成感を感じなくなったのか

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幼少期の頃はなにか自分でやる時に、これからここまでやるとか自分で決めて、そこまでやって、「できた!」と感じてから次に行ってた。まぁ子供って大体そうだと思われる。

このゴールまでの距離は今の私から見たら相当に短く、例えば文字だけの本とかは2ページ読み切ることを決めてそこまで読んで、まぁそのまま次のページも同じようにして読んで。ページをめくる行為が目標であり、報酬だった。

で、そこそこの読書量だった。子供にしてはだが。そんな読み方でも内容も本のタイトルも覚えてるもんで、効率的な勉強法より勉強量のほうが勝つのかもな。両方あったほうがそりゃいいが。

今だと本の厚みで読了までの時間を無意識に測ってうんざりするとかになってるわけだが。なんか流れ作業だね。ページをめくってもなんとも思わんし、読み終わっても「はい次」くらいにしか感情が浮かばない。

これはもっと大きなことにも言えることで、日常の内に限って言えば何やっても「できた!」とはもう感じないなと。

まるで秘書が大量の仕事を抱えて傍に控えており、今のタスクを終え次第に次の仕事を差し出そうと「待ち構えているかのように」。わんこそばみてーな感じで。

 

>時間的視野

子供の場合、目の前のことに集中しやすい。
大人の場合、その後のことまで考えていたりする。

経験則や知識により因果関係を体で覚えていけば、「次」は予測しやすくなる。私達の場合、やる前にもう「次」はわかっているし、その作業量の予期でうんざりすることもある。

ただ、予期こそがそのタスクに於いて最もストレスを感じる部分であることも多いらしい。数学嫌いが数学について考える時、脳は実際に痛みを感じている。だが、実際に問題に取り組んでいる時は痛みは感じていない。不安や恐怖と言った予期から纏わる感情が痛みの原因であり、まぁそっちに注意は行きやすい。

もちろん好ましい予期ならば、プラスに働く。というかこっちでも達成前に勝手に脳汁垂れ流しているらしい。せっかちだな。
目標を人に言ったらプレッシャーに感じて気合が入るタイプと、満足していい加減になるタイプと分かれるらしいが、後者は「予期」で満足してしまったと言える。

嫌なことにも限らない。次が見えてるということは、今の作業はさっさと終わらせるべきだということだ。人間の頭の中は狭い。ワーキングメモリのチャンク、つまり瞬間的に頭の中で並べられる情報の個数で言えば4つだとされている。まぁセットで保持したりしてるから体感的にはそれほどでもないはずだが。

ともかく意識的に活用できる「頭の中」は存外「狭い」ので、次が気になるなら今の作業はさっさと終わらせたくなるし、次が気になってるから今に集中できず、ヒューマンエラーにも繋がる。

ちなみにヒューマンエラーは大別して3種類。

  • ミステイク(やろうとした事自体が間違っている)
  • ラプス(やり忘れ)
  • スリップ(多種多様なやり損ない)

特にスリップは「見りゃわかるようなありえないミス」であり、そしてそれが現実に発生しうるのは、何らかの原因で「今」に意識が向いていないからだろう。どうあがいても集中力は30分で限界って話もあるがa)Mackworth(1950)

次へ、次へ、次へ、次へ、と寝るまでこの調子じゃまぁ、「今」はいつ目に入るのやらと。

>難易度と冒険心

子供の場合、出来るかどうか分からなかったり、大変そうに見えたりする。無理かどうかわからないからやってみる。
大人の場合、出来ることがわかりきっており、消化試合にすぎない。無理だと思ったらやらない。

大人はそれができるかできないかということが「わかりすぎている」のかもしれない。だから同じ主観的難易度の対象に対して「難しそうでもやってみよう」とはならず、「めんどくさいがやらなきゃならぬ」、となるのだろう。

わかると言ってもこれまた当人の主観であり、実際とは別。まぁその主観的成功確率の精度もそこそこあるだろうけれどね。ただ試すということはしなくなるから、ずっとアウトプットだけの状態ってことになる。インプットはされない。つまりダメだと思ってやらないことは死ぬまでダメだと思ってやらない。

コレも不思議な話だが、こういったアウトプット一点張りの成功確率の推測は「自分が学習/成長する」ということを全く無視している。これは割と簡単に「自分は変わらないからお前が変われ」的な常識棒で人殴る奴になりやすい。

子供の場合は自分と他人との差異はそのまま自分の将来性として取り込めるから「希望」があるのだろう。

実際には古典的条件づけとかオペラント条件づけとか見りゃわかるが、「常に学習している」「嫌でも学習している」としたほうが正しいだろう。大人でも。でもその学習が「やらない」ことの強化だったとしたら、ちともったいないか。

>「あたりまえ」

一番大きいかな。できて当たり前。感動するには値しない。達成感を感じるには値しない。

ただこれは、達成感に対しての「認知」に問題がないだろうか?

「できないことができた時」しか達成感を感じてはいけないと思っていないだろうか。
「人生にとって価値がある勝利」にしか達成感を感じてはいけないと思っていないだろうか。

あるいは「些細なことで喜ぶのは恥ずかしい」だとか、
それとも「自分の目標はもっと高いのだから喜ぶのはお預けだ」だとか。

実際にはもっと安っぽい、そこら辺に落ちてるものじゃないだろうか。
「報酬」にするのは結構だが、達成感や充実感は必要なエネルギーでもある。マラソンランナーが水を「ご褒美」にして給水所で一切水飲まなかったらぶっ倒れるだろう。ぶっ倒れる前の位置に報酬を置くべきだ。

達成感をとんでもなく過大評価してないだろうか。「神聖視」と言っても良い。その結果「高嶺の花」になっていないだろうか。

なんかあれだ、「うまい棒は誕生日にしか食べちゃいけない」とか思ってるやつ見てるみたいな、そんな感じがする。

>忙しい?

さてまぁ、やることいっぱいで忙しいし、やっぱりこんなことできて当たり前だし、そんな小さなことでいちいち喜んじゃいられないし、という声もあるのだろう。

確かに時間的な視野が伸び、長期的で計画的な行動を実行したい私達にとっては、一歩一歩はあるかないかよくわからん程度に小さく見える。

だが、「できた!」って一瞬思うことが本当に時間や手間がかかることだろうか。違うだろうな。そもそもできても見ていない、というかあんまり認知していないだろう。

私達は、暇があろうが余裕があろうが些細なことに「できた!」とはもう思えなくなっている。「褒め役」である自分が「次の仕事」を抱えてわんこそばみたいに待ち構えてるんだから。わんこそば役は終わったかどうかしか見ておらず、それは「できたかどうか」じゃない。

まぁわんこそばやったことないけどな。あの手早さでおかわり突っ込まれたらイラッと来ると思うんだが、楽しいんだろうか。

>メモ

脳は刺激を好むが、同時に同じ刺激に対しては慣れる。依存症がエスカレートする理由でもあるが。ともかく、同じことに同じ達成感を感じたり、感動をするのは難しい仕様をしているのは確かだ。そういった意味では大人の方が色々経験して「慣れている」から刺激は少ないのは事実だろう。

だが、ここも何かおかしい。延々と本読んでページめくってた過去の私はそれに飽きることはなかったし、かと言って依存しているわけでもなかった。あのささやかな達成感はページをめくる行為ではなく、そこまで読み進んだ自分に対して感じていたのだとしたら、つまり成果ではなく成果を作り出した自分に感じていたのだとしたら。当時の私は「一歩進むこと」を重視していたと言える。

まだ何か足りないか。当時も「本を読み終えること」が長期目標としては存在していたのは確かだ。ただその価値は違っていたように思える。伝記とか読むような年じゃなかったからそれをやること自体に特別なことをやっている感覚はあったし、その上でそういった本を読み終えたという「実績」が欲しかったのも事実だろう。これまた「成長」とそのためのタスク、その証明のための達成であり、要するに達成の価値は明らかに今とは違う。

価値が違うのは大きいだろう。当時宿題ノリノリでやったかっつったら全然だったし。今の私の「やりたいこと」に対して感じる一種の義務感や作業感は「宿題」のようなやらされてる感に近いと言えば近い。自分のやりたいことなのに。これはその「達成」が長期目標に於いての「たかが一歩」であるとする認知が強いからだと思われる。

まぁ普通に本読むくらいわけはないのは確かだが、やはり「時間的な視野」が原因だろうか。効率的にあらねばならないという強迫観念がないだろうか。ただでさえ80や90まで生きると仮定したら残り何時間の人生かとか計算できてしまうわけで。人生カウントダウン。棺桶に入った自分を思い描くより目の前のこと楽しむべきだとも思うが、焦りの感情とはタチが悪いものだな。

となると「」に対する責任感や価値の違いだろうか。集中すればするほど時間感覚がおかしくなるし、子供の時は集中しやすく、それによる失敗により「集中しすぎないこと」を学ぶ。……学びすぎたか?

慣れの要素もなぁ。私がバートルテストやったらぶっちぎりでエクスプローラーだったからな。発見を求め、飽きっぽい。バートルテストはどのようなゲーム要素を好むかというテストだが、言い方を変えれば「何に楽しさを感じるか」ということでもある。自分のタスクに対しての「ゲーム化」を考えるなら重要な要素かもしれない。

参照:バートルテスト(日本語訳):http://aladaka.blogspot.com/2016/05/bartle-test-jp.html

脚注   [ + ]

a. Mackworth(1950)







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