- 殆どの人間の世界観
- ただの思いこみなので現実との不一致が起きる
- 不一致が起きるとバグる
事件を見た人間のヒステリー全てがこれに関係してるとは限らないけどね。
公正世界信念とは
・『世界は突然の不運に見舞われることのない公正で安全な場所であり、人はその人にふさわしいものを手にしている』との信念とされる。
公正世界仮説、または公正世界信念、あるいは公正世界誤謬。
信念との言葉は意思の強さを感じさせるかもしれないが、実質ただの思いこみである。
誤謬(ごびゅう)ってのは「間違い」ってこと。
・簡単に言えば、全ての物事が良くも悪くも因果応報という世界観。世の中に理不尽はなく、その身に起こる全ては汝の行いの結果である。みたいな。
人によってはこの時点で公正世界信念が割りとクソだと気づくだろうけれど。
・公正世界の世界観は、幼児期からの経験を通して形成される。
公正世界の強弱はこの経験に左右されるため、個人差がある。
経験則なので、暗黙知や経験知と言ってもいいだろう。
・公正世界を覆す理不尽、例えば「罪もない犠牲者」が事故や通り魔、悪人の餌食となったような情報を得た時、公正世界仮説は危機に陥る。「公正な世界」ではありえないことだから。
「罪のない被害者」への攻撃性とその目的
- 公正世界信念を維持するため、なんとかつじつまを合わせようとする。
被害者バッシング
・人の「不運な目にあった罪のない被害者」に対して人格を傷つけたり批難したりする傾向が、公正世界信念が関係しているとの文脈で研究されている。
・特に、
- 自分と被害者の属性に類似点がある場合
- 被害にあった原因をどこにも帰属できない(何かのせいにできない)場合
この2つで被害者バッシングの傾向が高まるとされている。
・最悪なのがその動機だ。公正世界信念による被害者バッシングの動機は、「公正世界信念の維持のため」とされる(維持方略)。
つまり「こいつに問題があった。世界には問題はない」と思い込みたいために被害者を攻撃する。
加えて、被害者が長期的な苦悩を強いられたり、被害の回復が望めない場合ほど、批難の程度は強くなるとされている。これは大きな事件であるほど被害者を責める傾向が強いということだ。
そして実際に、後述する「公正世界信念の恩恵」とでも言えるものは、被害者バッシングをする者程、悪いニュースを聞いても揺らがない。
ただまぁ、理不尽を見た不安感から逃れるために他人を理不尽な目に合わせるというクソみたいなことをやるわけだから、その内刺されるんじゃねーかな。
加害者の非人間化
・理不尽な事件かつ加害者が存在する場合、加害者の非人間化を行う傾向がある。
2種類があり、悪魔化、患者化と呼ばれる。
どちらも「加害者は異常者である」とすることで理不尽の一般化を抑える。要するに珍しいことだと思おうとする。
白井 (2011)によると悪魔化のスキーマは
- 不可解な動機
- 凶悪な行動
- 自責のなさ
となっている。
・悪魔化も患者化も今のところは違いがはっきりとしていない。総じて非人間化とされている。個人的な感想だが、多分本質的には同じものだろう。
面白い研究としては、男女8人にストーカー殺人の上で記念撮影する凶悪事件(つまり公正世界信念が崩壊する事件)の被告の、
- 死刑を前提として判決文を書く
- 無期を前提として判決文を書く
この2つのグループに分け、記述の言語表現を分析したものがある。
死刑を前提としたグループは「卑劣な」「極悪非道」などの性格への言葉が並んだ(悪魔化)。
一方で無期を前提としたグループは「未熟な」「心神耗弱」といった能力への言及が多かった(患者化)。
このため、加害者への厳罰を望む気持ちの強さで変化するかもしれない。
まぁ異常なことをすりゃ異常者と呼んで差し支えないとも思うが、「異常者だとする」ことが目的で人格や能力の決めつけを始めるため、事実が明後日に飛んでいく。
「理不尽なニュース」を見ると長期目標を立てられなくなる
・先ず前提として、公正世界信念には「恩恵」がある。
公正世界信念が維持されている状態=世界は安定して秩序ある環境なのだという認識は、心理的な安定、長期目標、幸福感を維持するための基盤となっているとの指摘がある。
要するに「理不尽は起こらない」と信じ込んでいるから、理不尽の心配はしない。その分前向きな考えを持てる。
(この様に人間心理には事実よりも気分を優先する傾向がいくらかある)
・Callan,Shead,&Olson(2009)の研究によれば、罪のない被害者が苦しんでいる状況を目の当たりにすると、長期目標を維持できなくなる。
具体的には普段と比べてより小さい、より短時間の報酬を受け取る選択をする傾向が強くなる。
例えば今日1万円もらえるか、1ヶ月後に2万円もらえるかという選択肢で、今日(今すぐ)1万円の方を選ぶなど。
積立NISAとかできなくなって散財に走る感じ。
理不尽を目の当たりにすると、未来や将来へ期待していられなくなるようだ。「明日が来るとは限らない」という心境。
ちなみに悪人がひどい目にあったのを見ても変化はない。だからこそ「被害者に落ち度があって欲しい」と願う心理は起こり得る。
・この傾向は被害者批難をどの程度行うかで異なる。
公正世界信念が脅威にされされた時、被害者批難を行う程、より長期的、より大きな報酬を選択する傾向がある(Callan,Harvey,&Sutton,2014)。
このため「被害者批難を通した信念維持は実質的な利益をもたらす」なんて言われている。
これって公正な世界なん?
自分の世界観に自分が居ていい資格がなくなると思うのだが、なんか平気らしい。すごいね脳みそ。
メモ
・恐らくだが、マッチャーの「ギバーに報いる」「テイカーを懲らしめる」というのも公正世界信念に沿った心理だと思われる。
・公正世界信念の強さは個人差があるが、強いと「お返しができない(またはしたくない)から助けられると困る」など結構不具合を出すことがある。
またこの怖れは、お返しをしないと周囲から村八分にされたりリンチされたりする怖れを含んでいる。
当然逆の立場だと「やる側」に回る可能性も並よりはある。サドの自己責任論者を思い浮かべれば良いだろう。
このため「公正」な人間の心身や人格が健康的とは限らない。
[blogcard url=”https://embryo-nemo.com/3345/”]
・程度の問題なのだろうが、公正世界信念はご覧の通りヒステリー製造モジュールみたいなとこあるのであまり好きではない。元から計画段階での楽観主義(ポジティブにあらず)が嫌いだし。
この2つは交流分析で言うディスカウント(値引き)だと思われる。何かしらを過小評価することで、望んだ世界観を維持する。
理不尽のディスカウント。都合の悪いものへのディスカウント。
・信念維持とその崩壊の顛末は、ストックデールの逆説に流れがかなり似ている。
捕虜となった楽観主義者は始め「すぐに開放されるだろう」と気楽で居た。ストックデールにはこれが現実から目を背け、事態を楽観視することで平静を保っているように見えた。
数年立っても開放されず、結局は絶望した楽観主義者達が真っ先に死んでいったという。耐えきった者は、初めから「長く辛い収容生活になるだろう」と覚悟していた。
楽観主義はポジティブとは違う。「なんとかなる」ではなく「問題はない」と思い込もうとする。公正世界信念は楽観主義に近い。
[blogcard url=”https://embryo-nemo.com/460/”]
[amazon asin=”447802832X” kw=”公正世界仮説”]
参照: