- できる/知っているが言葉にできない知識。
- 言葉にできる知識と反対の存在。
- 「伝えたくても伝えられない」逸話は昔からある。
暗黙知とは
- 「知っているが言葉にできない知識」を指す。
- 大きく分けて2つの使われ方があり、経験や勘などの身につけた(言葉にできない)知識と、まだ言語化されていない知識とがある。
・暗黙知でわかりやすい例は、自転車の乗り方を教えるという状況。バランス取ってペダル踏めぐらいしか言うことない。で、それだけじゃ言われた側はできない。
このように簡単に説明できないし、言葉にするのも難しいが、自転車に乗れる/乗れないの様にはっきりと「その知識」の有無が確認できる。
・暗黙知は2つの意味で使われる。
一つはマイケル・ポランニー(ポラニーとも)が『暗黙知の次元』で提唱したものであり、非言語的で包括的な知とされる。
これは無意識的なレベルの知識であり、「人の顔を見分ける時に自分は何をしているか」などの次元である。
哲学や認知心理学に近く、ポランニーは科学者から科学哲学者に転向している。
もう一つは「まだ言語化されていない知識」とされる。これはコツやカン、ノウハウなどを含める。ポランニーの暗黙知を元に、野中郁次郎が知識経営論として使い始めた概念。
属人化を避けよう、そのためには個人のノウハウ(暗黙知)をちゃんと会社で管理(形式知化)しないとね、みたいな文脈で使われる。
(現在ではこちらの意味での使われ方が多いだろう)
形式知と比べる暗黙知
- 暗黙知と相対的な概念として形式知があるよ。
- 暗黙知と形式知を比べると暗黙知がわかるかも知れないよ。
- 本当は相対的な関係じゃなくて、1つの知識は形式知+暗黙知だよ。
・暗黙知の対義語は形式知と呼ばれ、こちらははっきりと言語化できるもの。ただし知識のすべてを形式知にできるとは限らない。相対的に「言葉にできない部分」は暗黙知となる。
・形式知との区別は以下の3つの観点から可能
- 記号化可能性と知識の転移の仕組み(形にできるか、伝達できるか)
- 獲得のための方法(形式知は論理的な推論、暗黙知は実践経験を通してのみ)
- 集約可能性と知識体系における位置づけ(形式知はwikiの1記事みたいに1つの方向に集約される、暗黙知は個人的文脈(経験とか)に依存するため、集約されにくく分散的になる)
暗黙知を経験知、形式知を明示知と呼ぶこともある。
・形式知になるのは、全体の知識の「氷山の一角」に例えられる。裏を返せばそれ以上の説明は無理である。
この氷山全体がそれにまつわる「実行するための知識」の全体であり、形式知にできる所をすべて言葉にしてもスキルは伝わらない。
なので口で自転車の乗り方説明しても、それ聞いただけじゃ相手は自転車に乗れない。あくまでも当人が個人的文脈(経験)で「自転車の乗り方」の暗黙知を自己の内部に形成する必要がある。形式知はヒントくらいにはなる。
「上手な教え方」ってのは多分、相手が暗黙知を作ることの手助けになる形だろう。
逆に「下手な教え方」は、知ってること思いついた順で言って、「え、これだけ言ってなんで分かんないの」ってなハラスメントだから比べるとわかりやすいかもしれない(暗黙知の概念を知らない)。
・多分イメージが湧かないと思うが、本来の暗黙知の概念が、認知科学レベルの無意識にまで話が行くのでそういうもんです。(論文に「通常の認知の枠を超える次元に存在すると考えられる」なんて書かれてる)
簡単に言っちゃえば「人が他人の顔を見て知ってる人かどうか判別する過程」とかそんなレベルのも知識としてカウントしているから膨大になる。この上で「顔を判別する機能」の全体に行き渡る根本的な知識も含まれる。
だから当人がその項目について暗黙知を形成した時、コツを掴んだ、飲み込めたなんて感じで一種の天啓、悟りレベルで世界が開ける。時には急にできるようになった、と感じることもあるかもしれない。
古人の糟粕
- 本読んでたらジジイにイチャモン付けられる話
- 伝える側の視点での暗黙知の存在
- 教わる側としても、言葉の理解だけではなく暗黙知を形成する必要がある。
暗黙知を上手く表現した話に、莊子の『古人の糟粕』というものが有る。こじんのそうはく、と読む。「昔の人間の絞りカス」と言う意味。
昔、一人の男が読書をしていると、そこに車大工が通りかかった。車と言っても昔だから、まぁ荷車のようなもの。
大工は男に声をかける。何を読んでいるのかと。
男は答える。昔の聖人が残した書物だと。
大工は重ねて問う。その聖人はまだ生きているのか。
男はとっくの昔に亡くなった、と答えた。
「ではあなたが読んでいるその本、そこに書かれている知識は、死んだ人間の絞りカスのようなものですね」
当然男は不愉快に感じたが、大工は重ねて言う。
自分は車の車輪を作っていて、息子にその仕事を受け継がせようとしている。
車輪の軸受けの部分を作るコツは、何度説明しても言葉では上手く伝わらない。
未だに息子は軸受けを上手く作ることは出来ず、自分はこの歳でもまだ現役でいなければならない。
軸受け一つですらこうなのだから、きっとその本を書いた聖人とやらはもっとたくさんの『伝えたくても伝わらないこと』があったに違いない。
だから、そんな本は昔の人間の絞りカスだ、と。
・書物、文章、言葉でもそうだが、自分が伝えたい事と相手が理解した・思った事というのが本当に一致しているのかどうか確かめるのは難しい。とある物書きは「3割伝われば良い方だ」と言っていた。
伝える側も全部伝えたつもりでも、やっぱり何かが抜け落ちているから伝わらない、ということがある。
・古人の糟粕から転じて、古人の作った形式に囚われて中身がなく、進歩する気がないことを「古人の糟粕を舐める」なんて言ったりする。
これは形式知に囚われて暗黙知の存在を忘れると言い換える事ができるだろう。
そのスキルや知識の根底をなす重要な基礎部分は暗黙知に該当することが多い。これがなければ成り立たない。じゃなけりゃ言われたらやれることばかりになる。そうじゃないのが良い証拠だ。
よりによってこの部分が伝達不可能に近いため、継承は難儀する。このため課題を与えたりする形で開眼させようとするスタイルが多いか。
もちろん一つのアドバイスで超伸びた、なんて話もある。ただアレは、どちらかと言えばデバッグに近い。本人の緊張や思い込みによるエラーの解消であり、「継承」とはまた違う気がする。
・個人的に、「才能」と呼ばれるものの正体がこのようなイメージ的理解の精度と速さ(暗黙知の形成の速さ)なのではないかと思う。
反対に学校の勉強では形式知が問われる。このため成績が良かったから自分は優秀だと思ってたのに、社会に出てからポンコツだと気づいた、なんて話はある。逆パターンもあるね。
ただし、形式知の取得効率に暗黙知は関わる。基礎だから。このため社会に出てからも優秀、ってのはやっぱりいる。
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量が質を作る、なんて話がある。実際にある実験では、数をたくさん作らせたグループが、質にこだわらせたグループよりも質も良かった。
これらは数をこなす内に暗黙知ができてきた、と考えることもできる。
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