・さてまぁ、便宜上は毒親としているわけだが、別に親にも限らない。
「支配」-「被支配」の関係としてみれば、上司と部下、強気な奴と弱気な奴など、上下関係では結構当てはまる。
なお、支配と言っても婉曲的なものを含める。
例えば「甘やかすのは虐待」とか、親が親じゃなくて「友達」になってしまっている親子関係とか、そういった指摘は存在する。
毒親とは
・「毒になる親」の略。有害な親。トラウマとか、自己肯定感の低さとかの原因とされる。
毒親から掛けられた言葉が尾を引いて自己肯定感が低い、みたいなことを「毒親の呪い」なんて呼んだりもする。
字面でわかるかもしれないが、wikiでは「俗的概念」とされている。学術用語ではない。
・強権的な父親や、過干渉な母親、あるいはネグレクトな両親がテンプレか。母親がそうだとされることが比較的多く、「毒母と娘」といった構図の話になりがちだ…と、wikiではされている。
まぁ実際には父親と息子、父親と娘みたいな話も結構あるのだが。
個人的に知ってる限りだと、確かに「モンスター化した母親と、何もできない/しない父親と、その被害者である子供」って例も多いが、同じかそれ以上に「独裁者の父親と、太鼓持ちの母親と、その被害者である子供」って構図の方が多い気がする。
まぁそういった父親に対して母が父から自分を守ってくれなかった、保身を優先して自分を裏切ったのがトラウマ、なんて話も多いが。
・この話において母親のほうが些か槍玉に上がりやすいのは、子供から母親への「養育者としての期待」が比較的大きいからだろう。大抵の父親はそちら方面では元からあまり期待されていないのだと思われる。本能的な話に限るが。
母親が毒親とされやすい理由はもう一つあるが、それは後で。
「毒親」の由来とアダルトチルドレン
・英語圏でもToxic Parents(毒親)という言葉がある。日本の毒親の概念はここからの「輸入」だとされている。
それにまつわる2冊の本の内、スーザン・フォワードの「毒になる親」は良書だったらしいが、もう一冊が途中までしか翻訳されずに誤解を生み(しかもこちらは宗教書だったらしい)、「毒親糾弾」という流れに一役買ってしまった、とされている。
Toxic Parents はAC(アダルトチルドレン)から派生した。
・https://www.hitachi-zaidan.org/mirai/02/paper/pdf/saito_treatise.pdfによれば、もはや「毒親糾弾ブーム」となっており、ACの概念がそちらに取り込まれてしまった、と。
完全にACの二の舞になっているな。
一応説明しておく。
・ACは「自覚用語」であった。親がアレな子供達が抱えていた生き辛さを、自分が「理解」するためのものだった。
要するに、形のない「生き辛さ」から前向きになるための定義付けだった。
親の相手をするうちに身についた、「危険な親の機嫌を気にする」、「誰かの世話を焼こうとする」などが対人関係で出てしまい、成人後は「演技的善人」として生き、自分で自分の嘘くささ、空虚感にうんざりするなど。
が、よくわからんのに広める日本メディアのせいでよくわからんまま広がり、ただの「レッテル貼り」に成り下がった。「あいつはACだ」みたいな。
加えて運命論のような受け取り方をして、一生自分はこのままだ、と認識するものまで出てきた。
こんな認識のまま、ブームと呼んで差し支えないほど「アダルトチルドレン」という言葉は広まった。
ただ、このブームは「一般社会と非プロの間においてのみ」であり、アカデミズムからは「完全に無視された」と上記論文ではされている。
AC論は専門化を排除しての自助プログラムがあるらしく、単純に学者たちは出る幕がないと思ったのかもしれないが。
これらのせいか、齊藤學(ACの「輸入」に貢献した。上記論文書いた人)は、アダルトチルドレンという言葉を使わずに「アダルトサバイバー」と呼ぶようになった。これは残念ながら、未だに完全には定着しているとは言えないと思うが。
ちなみにビル・クリントンが大統領選で「自分はACである」とカミングアウトしたのがアメリカで広まったきっけかけの一つだとされている。
母親の再婚相手が酒乱で、撃たれた銃弾が頬をかすめたこともあったとか。
・はいまぁそんなわけでACの二の舞なのが「毒親」って言葉の現状だと思う。
手軽な納得が手に入る、ポピュラー心理学(通俗心理学)の立ち位置になってしまった。
多分このページの広告にも、それ系の漫画かなんかの広告が表示されると思うが、果たしてそれは作者が作りたかった話なのか、売れると思って編集が書かせた話なのか。
創作は創作だと心得るよう。確かに綿密な取材をする創作者は多いが、それは自分のためであり、消費者の人生に責任を持つためではないだろう。当たり前だ。
・実質的には「毒親」は、社会的に見てイカれているレベルと、社会的に見ればイカれていないレベルに分かれる。カウンセリングで自称「毒親育ち」が連れてきた親は、大抵は「普通」だそうだ。
後者であっても恨みに思う例はある。特に教育論だって後から新しいのが出てくるわけだから、「自分はこう育てられたかった。でも親はそうじゃなかった」と思うことは、今後あるかもしれない。
それは勝手に思えば良いが、「毒親」とは区別するべきだろう。
ちなみに親もACで、親の親の方がもっとひどいこともそこそこあるそうだ。
・気になる点が一つ。
(なお、「虐待」(maltreatment)という概念自体が比較的新しいもので、日本国内で虐待が実質的に社会問題となったのは2000年前後である[12]。)
虐待が社会問題となってからまだ20年しか経ってない。今現在「親」である世代は、「虐待を『教育』として受けた」という可能性はあるかもしれない。
つまり「教育と称して行われる無自覚な虐待」はあり得ると思う。
そう言えば事件沙汰になっても「これが正しい」と体罰をやめないスクールとかあったよな。
教育って、一種の洗脳だからな。適応や標準化を目指してるから問題にならないだけで。その方法が現代に適応してなかった場合、標準的でなかった場合には、まあひどいことになる。土足で日本家屋に上がり込む白人のような「常識のズレ」。
人間も動物であり、自分が「育てられた」経験は、自動的に「育てる」ために再利用される。負の連鎖。
一般での「毒親」概念の問題点
・毒親の問題点じゃなくて「毒親」っていう概念の問題点ね。
・前述の通り「糾弾」に終止している点が大きい。
いずれにせよ、玉石混淆な翻訳本を基礎に、「被害児童として苦労した私」の体験を述べたたくさんの本(自費出版を含む)が「毒親本」と呼ばれる一ジャンルとして定着しているのが現状である。
https://www.hitachi-zaidan.org/mirai/02/paper/pdf/saito_treatise.pdf
こうなった理由として、
「毒親」という過度な単純化:単純故に力強い。二極化、つまり極端化してわかりやすい。
セラピストが解説本を書きやすいテーマである:これなぁ。アドラーのアレのときもそうだったけど、出版社もテレビ同様だいぶアレだよな。
さらに
近代市民社会のノーテンキな「家族は天国」論への解毒剤的な意味がある。そこ(家庭)は、その中の弱者(子どもと老人)にとっては地獄になり得るので。
等が挙げられている。毒親論が解毒剤になるってことは、家族は天国論は「毒」ってこと。
これらの問題点として、「これからどうすればいいのか」という最も価値ある部分がおざなりにされているとされている。
ACのときと同じく、一般社会と非プロが「消費」している状態になっている。
当事者はもちろん真剣だろうが、既に「マーケット」になっていることには用心したほうがいいだろう。
毒親のタイプ
・精神科医の齊藤學は以下の4つについて言及している。
過干渉 統制型
・子供のやることへの先走り、先回り。
もちろん人生設計も。
結果、自分では決められなくなる。
摂食障害になりやすいらしい。無意識に成長することを拒否しているのだとか。
禁止令に「成長するな」ってあったな。
無視親
育児放棄。ネグレクト。
そこまでじゃなくとも、身体の弱い兄弟姉妹にかかりっきりだとか、「跡取り」を最優先にするだとかで、自分に向ける愛情の「不足」を感じさせるような親。
特に母―娘の関係に於いて、「言わなくても伝わっているだろう」という母親側の「甘え」がある場合、娘は特に愛情不足を感じるのだとか。
また、味方になることを求める、愚痴のはけ口にする、(母親が)褒めてもらいたがるなど、やはり母親から子供への「甘え」が強調されている。こんなんがしょっちゅうならそりゃイネイブラーになるわ。
ケダモノのような親
身体的、精神的、性的虐待などを行う親。
論文内では一つの例が挙げられている。
それは「罰が異常」だとし、その行為を「悪魔祓い」に例えている。
病気の親
精神障害などを持った親。
「例えば」として挙げられているのは、
双極性障害で躁の時の派手な男関係で子供を作り、生まれてからはうつに戻り、子育てをしない。
反社会性人格のような親で、相手を逃さないために子供を産み、結局は捨てられた。給付金がもらえるので子供は手放さなかったが、新しい相手ができたから子供を捨てた。相手に捨てられると施設からまた「引っ張り出す」。
毒親と「コントロール」
・毒親は「子供をコントロールしようとする」とよく言われる。「支配」とも呼ばれるが、それよりも婉曲的な方法も多い。
・さて巷では「毒親のたった1つの条件」なんて言われているのが、その「コントロール」のことだったりする。
某メンタリストが動画でそんな論文について言ってた、って話ばかりだったが。
Abstract(抄録)を読んでみると、
精神的ウェルビーイング(精神的良好性)の断続的研究
13-15歳、36歳、43歳、60-64歳 のタイミングでウェルビーイングを調査
結果としては子供の頃に 高い親のケア + 低い心理的コントロール の組み合わせを受けた場合が最も良好だった
単純に逆を言えば、 低い親のケア + 高い心理的コントロール は最悪だ、ということになる。
海外の論文にしては珍しく無料でアクセスできるから、読んでみたらどうだろうか。むしろ誰か和訳して。
・コントロールとはなんぞや、という話だが、相手を自分が望むように動かそうとすることを指す。
あまり知らないほうがいいんだけどな。腹が立ってくるから。
カイン・コンプレックス(兄弟姉妹での親の愛情の奪い合い)でも引き合いに出そうか。
元になった話では唯一神が野菜嫌いだったのが悪いが(微妙に違うがどうでもいい)、カイン・コンプレックスは子供側が親の関心に過敏であることも否めないが、大半が「親が兄弟姉妹と比較する」ことからこじれる。
なぜ親が比較するかといえば、大抵の動機がこの「コントロール」だ。ライバル心を刺激し、特定の行動(手伝いやら勉強やら言うことを聞くことやら)に「誘導」しようとする。
あるいは恥を掻かせることによって誘導しようとする。
あるいは泣く、悲しむなどで罪悪感を刺激して操作しようとする。
代表的なのは、思い通りになるまで不機嫌でいることか。子供でもこれはやるが、さてその子供は何を見て学んだんだろうね?
これらをやるよりはストレートにアレをやれ、コレをやれと言う方がマシだとされている。
人間はこれを日常的に使ってる。親子どころか学校でも、会社でも、社会全体でやってる所がある。
裏を返せば親どころか教師も、上司も、政治家も、広告会社も、全部「毒親」になり得る。
もちろんエリート意識で「奴隷の首輪自慢」をやってる連中もだ。兄弟じゃないが、アレはかなりカイン・コンプレックスに近い。
・母親を毒親だと思いやすいもう一つの理由ってのがこれだ。簡単に言えば「精神支配」のような手を比較的よく使うのが母親だから。
親子関係に限らず、基本男のほうがストレートに威張る。命令的。上下関係はっきりさせたがる感じ。マチスモとかマッチョイズムとか言われる。ジョックが最たる例か。
女の場合は腕力では劣り、一方で共感能力が高いともされ、同情を誘う(罪悪感の刺激)、それは恥ずかしいことだと指摘する(恥の刺激)など、他者コントロールの手段として婉曲的な(回りくどい)方法を選びやすい。
比較的、母親のほうが「子供の自主性」に拘っているように思える。
この上で「自主的に好ましい行動を子供に取らせよう」とする小細工が、この様に裏目に出ている感じ。
「性格を作ろう」としているようにも見えるな。だいぶやばいことしてないか。大学に入る前後で「自分がない」「自分がわからない」なんて悩みを持ち始める原因の一つだったりしないだろうか。コントロールされ続けたら「自分」が出る幕なんてないわけだし。
ともかく、動機はどうあれ「手段」としては最悪の一つのようだ。
・これはそのまま、母親から子供への「優しい子」「真面目な子」ってのが、子供にとって「思い通りになってくれる子」と言っているようにしか聞こえない可能性がある。
親が実際に「思い通りになってくれるからいい子」だから可愛がっている可能性も。この場合、将来的に毒親呼ばわりは妥当だろう。
・また、世の中の子育てで言われている「自発性を高める教育」について、一考するべきかもしれない。どう考えても操作するようなアレな方法とかたまに見かけるし。見方によっては「都合のいい自発性の植え付け」になるようなのが、いくつか。
・コントロールが毒親の「唯一の特徴」かどうかは正直怪しいが、相当嫌われる行為ではあるわけで。
とりあえずはそこを気をつけようってことは、加害者側でも被害者側でも比較的容易だろう。比較的、ね。
冒頭で述べたとおり、親子関係に限らない。この「唯一の特徴」は、まぁやる奴はそこら中にいる。裏を読みすぎて感情表現をコントロールだと深読みする例もあるだろうけどね。
参照:
https://www.hitachi-zaidan.org/mirai/02/paper/pdf/saito_treatise.pdf
https://ja.wikipedia.org/wiki/毒親