甘えは本来乳幼児が母親に抱く感情とされるが、大人にもあるともされている。
「愛されたい欲求」とされる。
また、「他者の好意に依存し、それをあてにすること」ともされる。「お言葉に甘えて」とかの甘えはこの辺りの意味だね。
甘えにも色々ある。例えば健康的で素直な甘え(相互信頼の上での甘え)と屈折した甘え(一方的な甘え)があるとされることもある。
屈折的な甘えの中でも攻撃的、強迫的なものとして「自己愛的甘え」がある。
自己愛的甘えについて
・受身的対象愛(後述)が満たされないことによる二次的産物とされる。
稲垣(2007a)によれば、「自己愛的甘え」は「『甘え』が満たされず、甘えたくとも甘えられないがゆえに、一方的で要求がましい自己愛的要求を伴う『甘え』」と定義される。
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110010061071.pdf?id=ART0010630965
・誇大性を含む過敏性に近い特徴を示すとされる。まぁ簡単に言ってしまえば偉そうで臆病。因子として3つ。
屈折的甘え
・甘えたいが甘えられないため、一方的で歪んだ形態を取る甘え。また、「他者に自分を認めてもらいたい」という願望を含める。
「甘えられない」理由は、相手がいないからだとされる。或いは相手との相互の信頼がない状態。
これは相手がいるかいないかより前に「甘えたい」という欲求は湧くことを意味する。
・要は「甘え」であることを隠した甘え。正当化、強迫/脅迫性。
・また、甘えたい自覚がない場合もこれに該当するとされる。自覚がないため「甘えたい」という心が抑圧状態であり、屈折的な表現につながる。
・これ単品の場合、恨む、僻む、拗ねる、敵意、屈辱など、まぁこれはこれでめんどくさい言動になる。
それが叶わなければ「怒り」になる、と言われている。
・また、この「甘えたくても甘えられない」という内部的葛藤と、そこから来る心理的な渇望状態そのものが自己愛に類似しているとされる。一方的で、要求がましいと。
・この「甘えたくても甘えられない」という状態を「とらわれ」とする尺度もある。
配慮の要求
・他者に対して自分に特別な配慮を向けてくれることを要求し、周囲がその要求に応じないと不満を感じる傾向とされる。
・自己愛的脆弱性(心理的安定を保つ力が脆弱であること。過敏型自己愛の特徴)の尺度の一つとして扱われることがあるとされる。
「潜在的特権意識とそれに依る傷つき」のことだろう。
周りの人の態度を見て、自分への配慮が足りないと感じることがある。
周りの人に対して「もっと自分の気持を考えて欲しい」と思う時がある。
周囲の人がもっと私の能力を認めてくれたらいいのにと思う。
他の人の自分に対して丁寧な態度ではないので、腹が立つことがある。
周りの人に対して「もっと自分の発言を尊重して欲しい」と思うことがある。
・モンスタークレーマーについて、これとの関係が示唆されている。
・友人に否定的感情を向けられた際に「怒り」を感じる場合、これが関係しているとされる。相手の意図を問わず、強く怒りを喚起すると。
許容への過度の期待
・周囲の人々から許容されるであろうという過度の期待を持つ傾向。
・「(特に自己利益のための)不適切な行動」+「許容されるとの期待」=「甘え」と呼ぶとされる。
・このため、甘えとは「不適切な行動をとっても自分は許してもらえる」と考えていることを示すと言える、とも。
・また、このための正当化として道徳、常識、ルールが持ち出されることは多い。つまり相手が悪いから「しかたなく」自分はこうしているんだ、という形。
まぁその通りのこともあるが、頻度や程度を気にしないようじゃ、説得力はなかろうよ。
・総じて「受身」の上で、さらに「他人に多くを求める」。
つまり「察しろ」「気を使え」という態度から「なぜ思い通りにならない!」みたいな感じになる。これはパワハラ、モラハラ、DVの加害者によく見られるパターンだろう。
受身的対象愛
・対象に愛されたいと思う心のこと。これが満たされない時に病的な自己愛が起こるとされる。
逆を言えば、受身的対象愛(愛される願望)が強すぎる場合にもこれは成立する。例えば誇大型の自己愛のような賛美・称賛を過度に他者に期待すれば、なぜ賛美しない、なぜ称賛しない、と病的な自己愛が出る。
・自分を十分愛してくれない、満たしてくれない、思い通りになってくれない、だから不満に思い、怒る、ということらしい。
この「十分」ってのがやっかいで、願望が強ければその分、普通なら満足する量が「不十分」になる。
また、「願望」といっても正確には安全欲求に近いだろう。つまりは「愛されていないと不安」であり、この心理は境界性人格障害に強く出るものであり、境界性人格障害は自己愛的甘えが強いともされる。
・これも許容への過度の期待と同様に、「他人に対しての期待」そのものにある甘えの属性だろう。
メモ
・まぁどれもこれも誰でも大なり小なり持ってるものだが。度が過ぎれば、問題になる。
・許容への過度の期待における「不適切な行動」ってのも、どう感じるか個人差があるだろう。
例えば「荷物が多くて持ちきれない、少し持ってくれ」というのは、
人に依っては「ああ、これは一人では大変だろう」と適切な要求に見えるだろうし、
また別の人には「いや、このくらい一人でもてるだろ。甘えんなよ」と不適切な行動と取られることもありうる。
或いは価値観的に自分のことは自分でやれ、という人の場合には「頼むこと」それ自体が「甘え」ともなるだろう。
これらは相互信頼が成り立っている、健全な方の甘えでも起こり得るし、自己愛的な甘えとの混同もまた避けられないかもしれない。
適切な行動が「甘え」と取られることもあるということ。逆に悪意か被害妄想か潔癖症かマウンティングか価値観の違いか、過剰に、理不尽に「甘え判定する者」もいるだろう、ということ。
必要以上に真面目で責任感が強い、思いつめるタイプの人がいる。
彼/彼女は人に相談もしないものだが、甘えと取られるのが嫌だから、かもしれないな。
それはプライドなどではなく、弱みを見せられないわけでもなく、理不尽に「それは甘え」と断じられた経験からかもしれない。
・健全な方の甘えに対しては、それほど潔癖にならなくていいだろう。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/pacjpa/72/0/72_2PM166/_pdf/-char/ja
例えばこの論文では罪の意識で抑うつになることは、罪=周囲との一体感や連帯感の喪失であり、「甘えたくても甘えられない」状態であるとされる。不安を抱え、尚且相談もできないような。
逆を言えばそれまで感じていた(自覚はなかろうが)一体感や連帯感は、「甘えられる状況」であったことを示し、すなわちそれが「安心」である。
まぁ、うんざりされない程度にね。「わたしってば甘え上手!」とか思ってるようならもうそれ、一方的な屈折した甘えやってるだろうからね。特権意識も感じてるよねそれ。
参照:
https://www.jstage.jst.go.jp/article/personality/16/1/16_1_13/_pdf/-char/ja
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110010061071.pdf?id=ART0010630965