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ゲームが義務化することについて

投稿日:2019年5月11日 更新日:

 

・義務化より、「作業化」と呼んだ方が適切かもしれない。

ゲームに何を求めていたか?

・初めに、プレイヤーがゲームに何を期待しているのか、義務とはここでは何を指すのか。

ゲームと幸福の三種類

・学習性無力感の発表とポジティブ心理学の創設者でもあるマーティン・セリグマン曰く、人が感じる幸福には3種類がある。

[blogcard url=”https://embryo-nemo.com/972/”]

・快楽:ポジティブな感情を感じること。これは熱しやすく冷めやすい。

・夢中を追求する:没頭すること。フロー状態とも呼ばれる。

・意味がある:自分よりも大きなことのために貢献している感覚とされる。

これらは個別ではなく、合わさっていることもある。快感であり、没頭もでき、意義があるなどの。

・快楽に類するものを望んでいるのなら、これは最も簡単に楽しめ、そして最も簡単に飽きる。コンテンツを「食い散らかす」のはある意味正解でもある。本来は飽きたら終わればいい。

・夢中を追求することは、ゲームで言えば「時間を忘れてプレイする」などの状態。このような没頭状態はフロー状態と呼ばれる。

[blogcard url=”https://embryo-nemo.com/900/”]

フロー状態の大きな特徴として時間感覚が変化する。気づいたら数時間経っていた、反対に数時間経っていたと思ったら数十分しか経っていなかったなど。

プレイヤーとして望むべき姿だろうが、「時間」が邪魔をする。時間を「忘れた」ら、大抵は困るわけだ。寝る時間に起きる時間、出社時間に待ち合わせ。結果魅力的なコンテンツは魅力的だからこそ警戒対象になりかねない。他の予定を損なう可能性もあるし、何よりゲームを「まとまった時間」でやりたいから。

・意味があるというのは、ゲームでは一見満たされないかもしれない。要点は「自分より大きなこと」という点。単に個人単位じゃなきゃいい。

オンラインゲームのレイドボスとかで簡単に満たせたりする。或いは攻略wikiに情報提供をするなどでも。あるいはもっと単純に「話のネタ」になればそれで満足かもしれない。
「問題を共有している」感覚で満たされるから。

この場合、ほぼ確実に他者を意識することになる。他人に合わせる必要が出てくる。義務感を感じる場面は増えるだろう。

平気な人もいるが、「ギルド」があるからこのオンラインゲームはやらない、とする人もいる。

バートルテストでのプレイヤー分類

・ゲーム研究者であるリチャードバートルはゲーマーを何を楽しむかで分類した。

 

アチーバー

・達成者。レベリングや課題に取り組むのが好き。実績解除やトロフィーコンプなども。

ゲームの世界を個人で楽しみたいタイプ。

キラー

・殺人者。PVPなどの対戦が好き。自分の強さを見せつけたい。

競争心が高い。

エクスプローラー

・探索者。「発見」を求める。経験や知識の獲得を含める。

そのやる気は「未知」に対して発揮される反面、繰り返し作業は苦手とされる。

ソーシャライザー

・「交流」を求める。人から頼りにされたい。

ゲームは交流のための話題、あるいはツールである。

 

・どれか一つだけ、ということもないだろう。大抵はほとんどがある程度該当する。これは性格類型論ではなく、ビッグファイブなどの特性論だ。簡単に言えばパラメータで表される。

ここから日本語で自分のタイプをテストできる。

[blogcard url=”http://aladaka.blogspot.com/2016/05/bartle-test-jp.html”]

 

・これは「何を楽しいと感じるか」「何を求めているか」、「何が目的となりやすいか」の分類だ。

アチーバー、キラー、エクスプローラーは快楽の幸福に該当する。

ソーシャライザーは「意味」に該当する。

 

面白いことに「夢中」がない。それは過程の中にしか存在しないからだろう。「目的」にするのは難しい。

多分一番「義務感」を感じやすいのは、夢中になれることを求めているタイプだろう。
目的そのものとは直接関係ないため、なんでも夢中になれる可能性がある。マインスイーパだろうがソリティアだろうが。
でもすぐにはフロー状態にはならないため、期待しながら惰性で続けることにもなりやすい。

・1つのゲームでも楽しみ方がそれぞれなのは周知の通り。だがプレイヤーは漠然と「クリアが目的」だと思っていることが多い。オンラインゲームだとエンディングないから余計惰性になりやすい。

これら個人個人の「目的」が、既に達成されたか、既に期待できない場合。それでも「クリアが目的」だと思っているのなら、義務感は感じるだろう。わかりやすいゴールではある。区切り、かもしれないが。

また、クリアではなく自分で立てた目的に対して義務感を感じていることも多い。めんどくさいのでクリアが目的として話を進める。各自脳内修正されたし。

ここでの義務とは何を指すか

・今回の場合は、別に誰かに強制されているわけではないね。自分から始めて、なぜか息苦しさを感じている。

義務感は後から湧く。積みゲーにしたって買った時や注文した時はそんな扱いをする予定はなかっただろう。

・「やらなきゃいけない」と思っていなければ義務感とは呼べない。そういった強迫的な思いはあると考えることができる。

それがあったとしても、好きだったり楽しいんだったら気にならないはずだ。つまり好きだと、楽しいと感じないか、感じてもそれ以上に義務感がある。

・ここで疑問が一つ湧く。聞き飽きてることだろうが、嫌ならやめりゃ良い。でもそうしない。

楽しくないけど、やらなきゃいけない。そう思っているのなら、「義務」と呼ぶにはふさわしい。

「やりたくない」+「やるべきだ」=義務感、とするならば、もう「好き」がどこにもねぇなこれ。

・どこかのインタビュー記事でゲームは映画よりも不利だ、としている開発者の発言があった。映画は途中がつまらなくても大抵最後まで見てもらえる。ゲームは途中が面白くなかったらそこでやめられてしまうリスクが有る、と。

それなのに今回の件はプレイヤーがゲームを続けようとしている。

つまりプレイヤー側に原因がある場合、

・なんか色々と今やるのはしんどい
・本当は今やるつもりはないけれどやり遂げなきゃいけないと思ってる

この2つは大きいと思う。面白さを求めているわけじゃない可能性もあるんだが、それは後で。

しんどい

・リソースの問題。気力、体力、時間。金の問題は買ってるんだからあまりないだろう。課金要素の場合はかなり大きなウェイトを占めるが。

・気力について。そもそもゲームは、上げ膳据え膳の要介護みたいな接待ってわけじゃない。一方的な受動的コンテンツではない。システムとか世界観とか用語とか覚える必要あるし。

プレイヤーが自ら赴き、学習し、目標を立て、それを実現する一種の能動的な要素がある。「参加」。
つまり「やる気はそこそこ必要」なことである。

・体力について。長時間の同じ姿勢などは疲労する。年取って集中力がなくなった、っていうのが実は筋力がなくなって同じ姿勢が維持できなくなってきただけ、って話もあったりする。

筋トレしたら集中力付いた、やる気が出るようになった、という話はこれな気がするな。あれもダークサイドあるけど。

・時間について。プレイ時間はゲームに依ってかなり違う。
長いのではRPGやシミュレーションゲームだとクリアまで40~50時間掛かっても不思議じゃない。

また、集中による時間間隔の変化は誰でも経験しているだろう。フロー状態だと特に顕著だが、普通の集中でもそういうことはある。

「昨日遅くまでゲームやってたからあまり寝てない」ってのは、「そろそろ寝る時間だけどまだ続けたい」場合と、「気づいたら寝る時間を過ぎていた」というのがある。
要はゲームをしていると、やめたくなくなるか、やめること自体を忘れていることがある。中断以外の方法でこれに対策をするとしたら、まとまった時間を用意するしか無い。

積みゲーと呼ばれる現象、金を出して買ったのになぜそのゲームをやらないのか、の答えの一つがこれだ。確かに金は払った。「時間はまだ払ってない」。
つまりこれから失う。それだけの時間、つまり「楽しむためのまとまった時間」がそれが用意できない場合。

この上で「クリアしなきゃいけない(後述)」というのがあれば、細切れの時間で/時間を惜しみながら、(少なくとも今は)やるつもりはないのにやらなきゃいけない、とはなる。

・金について。オンラインゲームに限って言えば、ほとんどの運営スタイルは廃課金頼りの収益モデルだとは言われているな。

地主とかそういうのがかなりの額を注ぎ込んでくれるとかなんとか。対人コンテンツは日本では嫌う人も多いんだが(FPSなどの対人を前面に出したコンテンツならキラーやソーシャライザーに受けるだろうが)、それでもやるのはそういった廃課金が際限なく金を突っ込む動機づけとしてとかなんとか。

当然「競争」の色合いが濃くなる。廃課金じゃなくとも一定のラインを維持するためにはある程度課金する必要はあるだろう。逆を言えば無課金でもそこそこ遊べるのはこのおかげでもあるのだが。

運営がこの方法を取らないなら、かなりのプレイヤー人数が必要になるそうな。艦これとかそういうスタイルらしいけど、それですら数十万円使って銀行から電話かかってきたって話が確かあった。大型建造かね。

この話に確証はないが実際の所、毎週追加される要素をコンプリートしたいと思ったら食費切り詰めても足りなかったりするレベルにはなるだろう。

自分の金だし、死なない程度に好きに使えば良いとも思うが。好きなものに際限なく金使うのが好き、ってのもあるし。

・これらはゲームに「没頭する訳にはいかない」警戒要素となり得る。
特に時間と金は顕著だ。際限なく注いだら、色々やばい。大人が全力を出したら大抵やばい。

「始める前の警戒/緊張感」の説明にはなるだろう。警戒対象に自分から赴くわけだから、それを義務感と感じても不思議はないかな。ちと弱いか?

続けることはいいことだ
物事はやり遂げることが望ましい
途中で投げ出してはいけない

・うるせぇ黙れ。

・前述の通り、本来はつまらなければやめることができるのがゲームだ。だが元からの責任感というか、物事への態度というかでそれを選ばない人も結構いる。

これらは物事に取り組む際の「心の癖」のようなもの。特に始める前とやめたい時に出てくる。

・社会的にはこういった教育は施されるだろう。何に対しても途中で投げ出したら呆れられるか、励まされてまた「やらされる」のが多い。

だから基本的にやり遂げようとする姿勢のほうが自然体ではある。最終的にそうなる。
逆を言うと「やめる」ことに対してエネルギーが必要になる。惰性で続けている状態が一番エネルギーは節約できる。

いろいろな理由からつまらんと感じてはいるが、「やめる」ことは「流れに逆らうこと」であり、それだけの気力はない状態。

「効率性のカルト(後述)」のように人々が日常に疲れ果てているのなら、決心もつかず、このような「惰性」と本当は「やめたい」気持ちとのジレンマが「義務感」となるだろう。

自分からやりたい理由はもうない。でもやらなきゃいけないと思う。

それほど深刻な珍しい事態でもなく、よくあるらしい。オンラインゲームのプレイヤーや連載マンガの読者は「辞める理由を探してる」状態に最終的にはなるという意見もある。

この連載終わったらジャンプ買うのやめよう、みたいな。この場合はジャンプを買うのをやめる理由ね。まぁ狙ったかのように新連載がスタートするでしょうが。

・積みゲーは恐らく始める時に上記のプレッシャーを感じている。つまらなかったらクリアまでしんどい、途中で投げ出してはいけない、楽しいにしても時間がかかる。これは「やらない選択」ではなく「後回し」に近い。まぁそのままやらないんだけど。

・これらは「諦めた自分」になりたくない、という心境と言える。これを意識しすぎると「できないからやりたくない」になりやすい。

途中で辞めるとすっきりしない

・途中でやめたくない心理の一つ。

心理学に「ツァイガルニク効果」というものが在る。不完了の物事は、強く記憶に残る現象だ。反対に完了した物事のほうが忘れやすい。

連載の漫画、ドラマなどが良い所でCMに入ったり、「また来週」となるのはこれを利用している。

言い方を変えれば「やり遂げないとすっきりしない」という心理が元からある。

もういっそ開き直って攻略情報見まくって「さっさと供養しよう」というつもりでクリアしたらどうだろうか。

反対にこの状況でも自力に拘るタイプだと結構辛いものがある。

サンクコストの見誤り/コンコルド効果

・「やめたらもったいない」という心理。「せっかく買ったんだからクリアしないと」というのもある。もったいないと思うあまりに、もっともったいないことをする皮肉なもの。

・サンクコスト=埋没費用。「取り戻せない出費」のこと。この場合使った金や時間、努力など。

これを見誤る例としては、映画を見に行ったらクソつまらんかった、もったいないから最後まで見た、という事が挙げられる。

一見よくある話だが、動機が「もったいない」の場合、チケット代を「取り戻そうとしている」と言える。これはどうあっても戻っては来ないだろう。キチガイクレーマーだったら取り戻せるかも知れないが、大抵の人間はキチガイクレーマーではないし。ちなみに一般において「クレームを入れる人」と「クレーマー」とは別物である。

・ゲームで言えば、つまらなすぎて「金返せ」と思うことはあるだろう。この状態で「面白いところもあるかも知れない」と渋々やっている状態。実際面白いところもあるかも知れない。

ゲーム売ればいくらか元取れる。だから見切りをつけるのが早いタイプもいる。
反対に売れないタイプもいる。こっちは惰性で続けるか、やめはするけど気にもする。

ちなみに某クソゲーの評価で「金をドブに捨てたければ、これを買うより実際にドブに捨てたほうが時間の節約になる」というのがあった。
金と共に「時間」ももったいない。時間を有意義に使いたい、と言う願望は結構な数の人が持っている。

・コンコルド効果は昔尖った性能の旅客機作ってた会社が「どう考えても精算が合わない」と結論出したのに「今やめたらもったいない」と続けてしまったことから。他にも「止めた責任」を誰も負いたくなかったなど色々理由は言われているが。

・総じて、今までの苦労や出費、注いだ時間などがもったいないと言える。この上で取り返そうとしている。

「もったいない」っていうのは結構厄介だ。上記の通り、取り戻せない部分に対してそう思うのなら、更に時間を無駄にすることにもなり得る。

 

その他理由と心理

慣れや飽き

・そのゲームの見通しがついた、慣れてきたからあとはルーチンワーク、これらは「刺激」がなくなる。

・フロー状態は、実力を発揮できる適度な難易度だと入りやすいとされている。簡単に言えば緊張と退屈の中間が望ましいと。

ただ興味深いことに、フローとゲームの難易度の研究では、難易度が高くても同じだけ「面白い」と感じたとするものもある。この研究に依れば、唯一面白いとする声が少なかったのが簡単な難易度だった。

参照:https://ipsj.ixsq.nii.ac.jp/ej/?action=repository_action_common_download&item_id=110394&item_no=1&attribute_id=1&file_no=1

慣れとは自身が成長し、相対的に難易度が低下することとも言える。これは刺激がなく、退屈となる。

習慣化

・脳は変な覚え方をすることが多く、簡単に言えば習慣化はプログラムのようにトリガー(特定の場面、タイミング、刺激)に対してのリアクションをする、というスタイルになりやすい。

つまりゲームをする、というのが意思ではなく習慣である場合。加えてそのゲームに飽きている場合。

もしかして、ゲームをする時間が大体決まってないだろうか、という聞き方はずるいか。休み時間にスマホゲーか、家帰ってからか、休日かのどれかだし、時間も、平日か休みかも「トリガー」としては十分だ。

トリガーたる刺激にさらされた時、こう思うだろう。

ゲームを「やらなきゃ」、と。

まぁ新しいゲーム買えば良い気がする。でも「途中で放り出せない人」も多い。こうなると苦行っぽくなる。

・また、オンラインゲームはほとんどが「習慣化」のための仕掛けを用意している。ログボや曜日限定のミッションなどがそれだ。イベントなども期間限定であり、その間ハムスターのごとく走り続けなければならない構成も多いな。

ゲーム自体が面白ければそれでいい、と言いたいが、「出されたものは全部食べる」みたいなノリで全て追いかけようとして嫌気がさすタイプも多い。多分アチーバー?

実際につまらないから

・まぁあるだろね!

特に好きだったゲームの次回作とか、リメイクとか、前評判だけ高かったゲームとかな。

これも「面白いはずなのに面白いと感じない」理由としては十分だろう。面白いはずなのに、実際に面白くないのなら。

「期待や興味がもうない」状態。でも以前は高かったから、まだ続けてる。

「温存」

・ゲームを「進めたくない」という気持ちは、消してネガティブなものだけじゃない。

東京工芸大学芸術学部ゲーム学科教授の遠藤雅伸氏(さっくり説明するとゼビウス作った人)がゲームを途中でやめる心理としてアンケートを取った。
調査結果の内、「温存」と名付けた動機は2つの理由からなる。

未完:ゲームを終わらせないためにあえて途中でやめる。
多目的:クリアの前に他の要素を消化するなど。

この内「未完」は自分の中でゲームを終わらせないためにゲームをしない、という選択となる。

気持ちとして未完への動機があったとして、この上で自分の中の「ゲームはクリアしなきゃいけない」というクソつまらん習慣が無理にやらせようとしている可能性は、無いとは言えないだろう。

先が見えたから

・同じく遠藤雅伸氏の論文に依れば、「先の展開が読めたからゲームを辞めた」というのもあったそうだ。

ただその推測が当たってるとも限らないし、確認のために一応ゲームを進めている間、やっぱり予想通りの展開だったらなんかもうつまらないし、やっぱり「作業」ではあるだろう。義務っぽい。

「好奇心」が満たされることへの期待値は、この状態はかなり下がっている。

一方王道ストーリーもまた未だに王道なわけだが、この場合目新しさというよりも「お約束」を期待しているわけだから不思議ではないのだろう。

受動的な快楽

・体調の話と言える。

・仕事や勉強で非効率なことは歓迎されない。自分でもそれを許さないだろう。個人個人で効率/非効率の境界も違うが。

効率的に行動することは無駄のない、絶え間ない行動だ。疲れる。
日中で疲れ果てた結果、「受動的な楽しみ」くらいしか楽しむ余裕が残ってない。
要するに「好きなことに頑張る」ことがもうできない状態。

Onstadさんは人々が週末にシリアスなレジャーを行う体力が残っていないことに関連して、1932年にイギリスの哲学者バートランド・ラッセルが出版した「怠惰への賛歌」が懸念した「効率性のカルト」について言及しています。

ラッセルは機械化の波が広がり、人々が「効率性のカルト」にとらわれてしまったと述べています。

仕事の間は絶え間なく効率性に追われ、仕事で全ての体力を使い果たしてしまうようになった結果、都市に住む人々は映画を見ること、サッカーの試合を見ること、ラジオを聞くことといった受動的な楽しみを好むようになったとのこと。

ラッセルは「彼らが効率性のカルトにとりつかれていなければ、もっと積極的な楽しみによって喜びを得ていただろう」と語っており、20世紀前半にも仕事で疲れ果てた人々は休日をカジュアルなレジャーに費やしていたことがわかります。

https://gigazine.net/news/20180314-what-the-best-weekend/

だが、前述の通りゲームは一種の能動的な行動、「自分からやる」行動の一つだ。これは特に新しい、これからやるゲームに言えることだ。慣れたゲームならこれはないかも知れない。

・本来自分のやりたいこと、好きなことに夢中になるのは「没頭」であり、一つの幸福の形だ。
だが時間がかかる。意志力がいる。頭を使うことや身体を使うこと=疲労することでもあるだろう。

自覚がないとは言え、既に疲れ果てている者が「自分から疲れること」をするだろうか。自然な心の現れとして、楽しみにしていたことに「やりたくない」と感じても不思議ではない。

・人がゲームを望むのは一種の癒やしや、鬱陶しい現実から少し離れたいという気持ちもあるだろう。

だが仕事だけじゃない、生まれたときから「効率性」に囚われた文化で育った私達に、それができるだろうか。

だってほら、よく聞くじゃないか。休日でも仕事のことが頭を離れない、ゲームしてても他の「やるべきこと」が気になるって。

もっとはっきりと「罪悪感を感じる」と言う人すらいる。
エリック・バーンの禁止令でも「楽しむな」という心理を持つ人があるとされる。ついでにいうと「子供であるな」というのもある。これもそれっぽいな。

この状態で、癒やされることを求めて、ゲームをするとしたら。

楽しくない、なんかやっちゃいけないことやってる気がする、これはおかしい、と首を傾げながら。

 

効率化のダークサイド

・目標のための最適なルートを見つければ、後はそれを実行するだけ。こうなるとゲームはルーチンワークになりやすい。

最適なルート以外の行動は「無駄」となり、許されない。

だが、「無駄」も一つの楽しさだ。自由であることだ。やりたいからやっていて、他に理由など無いという状態だ。娯楽は無駄であり、だからこそ人に必要なものだ。

この「やりたいからやる、それだけだ」というのはフロー状態に入りやすい要素でもある。結果が報酬なのではなく、やることそのものが報酬となっている状態。

効率化とは、物事をつまらなくした上で、それを高い完成度で実行することを強制することでもある。効率化して嬉しいのはクソ忌々しい作業が簡単になったからに他ならない。この喜びは「阻害要素」が消えた、あるいは克服したことによる。
好きでやってることに対してやったら同じく薄味になる。「楽しさが消えた」あるいは「楽しめなくなった」となる。

予定や計画を立てる楽しさはあるからねぇ。ただこの楽しさは実行時の楽しさの「前借り」かも知れない。

もっと大きな楽しさを狙って手をのばすことも出来るようになるのだし、だとするなら「次の楽しみ方を探す」という方向に行ったほうが建設的かも知れない。どうせ慣れちゃうしな。好きならそれだけやるだろうし。

時間がもったいない

・漠然とした「時間を無駄にしている」感覚が休日に湧く人もいる。他に有意義ことがなかったとしても。

・ゲームの分野で限ったとしても、毎月新作が色々出る。
分野を変えてみれば、例えばYoutubeに投稿されている動画は既に一人の人間が一生かかっても見れない量となっていると言われている。

楽しい「かもしれない」ことは沢山発表され、登場するわけだ。

ある程度「見切り」が付いたものをやりとげるよりも、本当は新しいものを探しに行きたい気持ち。それを抑え込む「やり遂げねば」という義務感。

いっそ浮気してみたらどうだろうか。未練が湧いたなら戻ればいい。離れる前より新鮮に見えるだろう。人相手にやったら刺されそうだが。

 

義務感はストレスだけか?

・楽しみ方もそれぞれだ。RTA走者はやってること苦行だしな。最大の敵が尿意らしいし。

「達成感」や「記録」を目的とするのなら、そこに至るまでの辛さは織り込むべきであり、別に問題ない。

充実感、没頭、或いは「楽しい」という感情が目当てだとしたら、それはプレイそのものに感じられなくてはならない。感じられないのなら、やめ時か、休み時なのだろう。

感情は瞬間的なものなのに永続的な評価のように感じられるものだ。未練があるならまたやりたくなるし、それを忘れて別のことに夢中になったとしてもそれでいいのだし。

何よりも危惧するべきは、興味を持って始めたそのゲームを「つまらない嫌いなもの」として終わることではないだろうか。
「わかんね―から投げた」の方がよっぽどよくないか。次がありそうで。

・elonaなんてあれだしな。ダウンロードしてチュートリアルしてゴミ箱にぶち込んでまたダウンロードするところまでがチュートリアルとか言われてたしな。

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備考

頭の中の言葉遣い

・やりたい→やらなきゃ。要は言い方が義務っぽい。

言葉遣いにより義務化している。
人は目標に対して「○○しなきゃいけない」、みたいな言い方が多い。
完了して得られるのは達成感ではなく開放感になる。

こういった言葉遣いに思考や感情が引きずられる、とする意見もある。

・ちょっとアンガーマネジメントの話になってしまうが、中学生の「キレる」という現象についての論文。

一口に「怒り」と言っても,何に怒っているのかが違うので,ずいぶんと気持ちは異なるはずである。

例えば,思いどおりにいかない状況にいらだっている,うまくできない自分に腹を立てている,相手が悪いので仕返ししたいなど,「怒り」は様々である。

ところが,生徒たちは「むかつく」とか「うざい」とか,単純な言葉で様々な感情を表現しようとする傾向がある。

http://www.edu-ctr.pref.okayama.jp/chousa/study/02kiyoPDF/02watanabe.PDF

他の学者の定義でも、「怒り」は弱いものから強いものまであるとされている。
本来段階的であり、怒りの対象によって種類も違うものなのに、加減や調整などがなく怒り=攻撃性が出るまでになっているということ。

要するに「おこ」程度の怒りでも全部「激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム」と言っているということだ古い。

冗談抜きで、昔一部が使ってたこのユニークな怒りの段階表現などはアンガーマネジメントとして理にかなっていたりする。感情を段階評価するというのは、感情に流されないためにはだいたい有効。

・またアドラーの個人心理学などで言われていることだが、怒りは「二次感情」であるとされる。何かを感じたその次に湧く感情。

怒りの前に恐怖、不安、悲しみなどがある。こちらが一次感情。これら全てを「怒りを感じたから」として怒りを表現していては、自分で自分がどう思ったのか、どうしたいのかすらわからない。いつまでも。

・この論文の冒頭ではキレ具合が書いてある。

平成14年12月の文部科学省の発表ア)によれば,平成13年度に暴力行為が学校内で発生した中学校の,全中学校数に占める割合は33.7%である。

岡山県の場合1)は中学校171校中103校において延べ857件の暴力行為が発生しており,60.2%の中学校で暴力行為が発生していることになる。前年度比で件数は微減しているものの,依然として高い水準である。

暴力行為の形態は,

「教師の胸ぐらをつかんだ」等の対教師暴力が161件,

「同じ学校の生徒同士のけんか」等の生徒間暴力が421件,

「ドアを壊す」等の器物損壊が272件,

「偶然通りかかった人と口論の末けがをさせる」等の対人暴力が3件で,

いわゆる「キレる」現象に代表される,

http://www.edu-ctr.pref.okayama.jp/chousa/study/02kiyoPDF/02watanabe.PDF

結構昔のデータではある。今ではニュースになるのは受動攻撃性みたいなタイプの方が多いか? 怒らせて相手の失態を晒す、とかね。だがそこまでの攻撃性を発揮するのは内面的にはキレてるのだろうし、そこは変わらないだろう。
「物理的に痛めつけよう」から「社会的に痛めつけよう」に変わっているとは思う。

・何れにせよ、これら「極端な感情」の原因の一つとして、怒りを分析しようとしない、つまり自らの怒りが何が原因か、最初にどう感じたのか、これからどうしたいのかを知ろうとしないことがある。

また1つ目の引用の通り、表現するためのボキャブラリーが乏しく、かなりの怒り、かなりの嫌悪を表す言葉を多用する傾向。

結果どうなるか、と言えば、ご覧の通りの暴れ具合、と。

もちろんこの作られた激情を内面に全て貯め込むタイプもいる。呑気な大人にとっては手間がかからないいい子かもしれないが、いずれ爆発するかも知れないし、何かしら病むかも知れない。

・以上から、「やりたい」ことを、「やらなきゃいけない」と言っているのなら、同じように言葉に気持ちが引きずられる可能性はあると考える。

原因はボキャブラリーが貧弱だから、とは思えない。それにしては年も環境も幅が広すぎる。

むしろやりたいことをやりたいことのままにできる人間のほうが少なくないか。殆どが「やらなきゃいけない」としていないか。
風呂に入らなきゃ、テレビ見なきゃ、寝なきゃ、そして「ゲームやらなきゃ」って。

・どうも「予定」に対して感じやすいように思える。展望記憶の機能だろうか。

やりたいことがストレスになることについて調べてみたら、結構あった。

[blogcard url=”https://embryo-nemo.com/1060/”]

・とりあえず「しなきゃいけない」を「やりたい」に言い換えておいたほうがいいかもね。かなり染み付いているはずだから、簡単ではないけれど。

言っちゃうことは多いと思うから、その後「言い直す」くらいのハードルのほうがいいか。

・あとは「ノルマ」って言葉も使わないほうがいいかもな。「目標」って言ったほうがいいだろう。

ノルマって言葉はロシア語なんだが、なぜそれが日本で広まったのか。

シベリアに抑留されてた(捕虜として強制労働させられた)日本人が帰国することで広まったんだってさ。ちなみに57万5千人の捕虜の内、5万5千人が死亡したとされている。

現代では一般化した言葉ではあるが、面白いことにノルマを果たそうとした結果、「得点」だけ狙い撃ちして質が落ちた話も多い。

日本の警察では、交通取り締まり(道路交通法による交通反則通告制度)や職務質問や軽犯罪法等での被疑者検挙の総数に『ノルマ』があり、検挙実績を上げて見せる為の不正が、しばしば問題となる(警察不祥事を参照)。

アメリカ軍では「リクルーター」(募兵官)が、ノルマ達成のため貧困層、落ちこぼれの青少年ばかりを「狙い撃ち」にする採用姿勢が、以前から社会問題化しており、この様子はリクルーター本人の同意も得た上で、マイケル・ムーア監督作品「華氏911」で取上げられた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%9E

・逆に、言い方を柔らかくした途端に「しっかりできないかも知れない」と不安を感じるようなら、自分をそうやって今まで厳しく見張ってきたってことだ。いきなり脱力するのもリスクが高いから、少しずつ柔らかくしていくといいだろう。

・多分だが、このような「つまらなくする言葉」と同じように「面白くする言葉」もあるかも知れない。

求道

・遠藤教授はゲーム関係の研究をしているわけだが、最終的にプレイヤーをルドゥサーとパイディアンに分けた。フランスの哲学者であるロジェ・カイヨワの理論「ルドゥス」「パイディア」から。


・カイヨワは遊びの本質を、対極となる2つの力で表した。

一つはパイディア。規則から自由になろうとする原初的な力。即興と歓喜。

もう一つはルドゥス。恣意的(自己都合、自己目的の様な意味)であるが強制的でもあり、窮屈な規約に従わせる力。

・海外ではパイディアンがほとんどいない、つまりほぼガチ勢ばかりなわけだが、日本では50%はパイディアンであると結論付けられた。つまり半分はエンジョイ勢。勝敗などにはこだわらない。

ただしこれらはゲームの勝敗にこだわらないだけで、当人がゲームに持つ目標、期待にはこだわっているとされている。例えば世界観に浸ることが目的の場合、ラスボス前症候群のような「ゲームを終わらせたくない気持ち」のために、わかりやすいゴールであるはずのゲームクリアを避ける行動を取るなど。

パイディアンはバートルテストで言うところのソーシャライザーとは別だということ。用があるのはゲームそのものだが、付き合い方がかなり個人差があることになる。

この辺りの日本人の考え方を外国人20人に聞いた所、18人が「わからない」、2人が「わかるけどやらない」と解答したそうな。日本人41人に聞いてみると「わかる」と「わかるけどやらない」が半々。やはり日本人の傾向と言っていいのだろう。

この辺りを指して教授は「求道精神」と言っている。ゲームのゴール、ゲームのルールではなく、自分のゴール、自分のルール。勝利ではなく、自己表現。

参照:https://cgworld.jp/interview/202005-endo.html

・つまるところ、私達がゲームに限らず「楽しみ/趣味」に今日も手を付ける「動機」は、パイディアではなくルドゥスの可能性がある。歓喜や熱狂ではなく、達成や克服かも知れない。あるいはそれをやるのが「自分らしさ」か。

その義務感は、そもそも気にするべきなのかどうかから怪しくなっても来る。この場合、「たしかに義務だし、それでいい」という結論にも到れるわけで。

好きなことをつまらなくした

https://togetter.com/li/836580から。

・ポケモンにハマっている子供に対しその父親が、
ゲーム時間は無制限、
ポケモンゲットをノルマに、
結果報告の義務、
義務を怠ったら叱責
というクソコンボの介入を行なった結果、ゲームをやらなくなったという話。だろうね。

正直な所、思いつくまではまだしも、実行に移した時点で危険人物だと思うけどねこの親。半端に能力や知識があると「できるかどうか」で判断し、「やっていいかどうか」を考えない人間が出てくる。コメントには中々の数で嫌悪と罵倒がある。

・さて、ロジェ・カイヨワは遊びを6つの活動に該当すると定義した。

  1. 自由な活動:強制されないこと
  2. 隔離された活動:時間と空間が定められている
  3. 未確定の活動:結果が未確定
  4. 非生産的活動:ゲーム外ではやる前と後で何も変わらない
  5. 規則のある活動:ルールに従う
  6. 虚構の活動:非日常であるという認識がある

件の父親は、義務と強制により、これをすべて破壊した。

まず自由ではない。義務とされ、果たさなければ叱責のリスクがある。強制。

隔離されていない。ゲーム時間は無制限だ。一見プラスだが、その無制限の時間はすべて「義務の時間」に既になっている。

未確定ではない。ノルマを果たすことを強制されるため、必ずその結果を確定させなくてはならない。

非生産的ではない。義務を果たすことにより義務からの開放、すなわち「自由/開放」が報酬として存在している。

規則はない。一見すると強制されているものが規則となるが、パイディアンの様な「自分のゴール」のための「自分のルール」ではない。求められているのはノルマを果たすことだけだ。

虚構ではない。繰り返しになるがゲームを行うことが「自由/開放」というリワードを獲得する手段となっている。


虚構は現実よりも弱い。簡単に壊される。だが、現実よりも虚構が価値を持つことがある。
「つまらなくした」どころの話ではない。台無しだ。

被害者の少年(と呼んで差し支えないだろう)は、ゲームをやらなくなり、代わりにサッカーをするようになったという。
ただこれはもしかしたら、ゲームが嫌になったのではなく、サッカーが好きになったとも限らず、「父親がいない時間と空間に行きたい/居たい」という事かもしれない。

・ゲームは無駄でなくてはならないのかもしれない。意味や利益を求めてはゲームではなくなる。例えばeスポーツは「競技」だろう。遊びではない。ゲーム動画投稿者にしても、人気が出てきてからゲームがつまらなくなったという話を見かけたことがある。期待に応えようとして、焦りが生まれて。

つまり「ゲームをする理由がゲームの外に存在する」と、少なくとも「ゲーム自体を楽しむ」ことは難しくなるのではないか。

・カイヨワの6つの定義の内「自由」「虚構」「非生産的」以外の3つは、仕事でも満たせる。「未確定」は微妙だが、「隔離」「規則」はほぼ必ず満たすだろう。

カイヨワの言うゲームの条件だけなら、基本無駄で、ルールとランダム性があればいいだけだ。ジャンケンでもいい。だが大抵はそれほど楽しくないし、ハマりもしない。私はジャンケンにハマっている奴を見たことがないし、ジャンケンがつまらなくなったと悩む奴を見たことがない。

「虚構」「非生産的」なことは、自分からはほぼやらない。自分でトータルで見て「無駄だ」と思っていて、やる/やらないの「自由」があったら、それをやる奴は恐らくいない。

ゲームをする時間の価値は、「素の自分なら絶対にやらない時間の使い方」だからだ、という部分も恐らくある。コンテンツにわかった上でそうさせるだけの魅力か期待があるってことだね。

ゲームをする、取り組む、義務化してきたと悩むというのは、当人にとってのそれだけの「何か」があるというわけだ。流石にここは、人それぞれだろう。
それは既に色あせているかも知れないし、まだ鮮やかかも知れない。

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