予防的態度
理想自己・義務自己に纏わる学術論文に「親の予防的態度」というフレーズを見かけることがあった。義務自己の理由の一つ。さらっと出てきただけだが。
義務的な自己像の形成には,子どもの失敗に対して罰を与えるという親の予防的な態度と関わりが深いことが指摘されている (Strauman,1996b)。これらの義務自己の安定性や幼少期の経験との関連の示唆から,この自己像は古くから所有されている自己であると認識されていると予測される。
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180911110754.pdf?id=ART0007346983(現在アクセス不可)
義務自己は「こうあらねばならない自分」。べき論とか、コアビリーフとか、あるいは完璧主義的な症状だとか、そういった理由にもなり得る。もちろんこれが社会性でもあるし、自分が安全でいるためのものでもある。要はやっちゃいけないこと、やらなきゃいけないことなどの集合体としてのアイデンティティ。
ただ、強迫性を持つことが多い。まぁ簡単な話だよね。やらなきゃ怒られるとかの経験がベースだとしたら。この場合、義務と対になっているのは「罰」なのだから。
「しっかりやろう」とすれば、「緊張」を必ず伴うだろう。
親が子に行う予防的態度は究極的なものだ。そうならざるを得ないだろう。目を離したら何するかわからない以前にどっか行ってるかもしれないような、そんなアクティブかつ物事の怖さを知らない上に自分の身を守れない幼体が無事に過ごすための予防と教育なんだから。
割と命に関わる。なんか最近は人さらいの話も多く見かけるしな。
そして子供にとって絶対的なものだ。そう思わせる必要がある。親が居ない時に危険に対して自分から注意しないといけないからだ。
総じて過度に過敏に危険を予測して、絶対的に徹底的にそれに対して予防をするという形が出来上がる。「たった一度の失敗も起こさないために」。
もちろん幼い子供にはこれが必要だ。火遊びしてる子供を見て「一度火傷すりゃ懲りるだろ」とスルーする親はめったにいない。いることはいる。ただこの場合普通に火事の心配はあるし、火傷にしたって「取り返しがつく」程度で済むとは限らない。そこらはクリアされていないのでやっぱダメだろう。
要するに、絶対にしないように守られ(見張られ)ながら、絶対に失敗しないような振る舞いを教育される。予防的態度とは、それを目指す。
危険予測とその対策のパターンとして
これは加減を知らない。むしろ全力の最大限の注意だ。そこそこ大きくなって、頭が回る様になった頃には、予測できる「危険」の幅は広がる。加減を知らないアクティブさが鳴りを潜め、未知の物事に用心するようになる。
賢くなったから予測能力も気づきも増える。「気をつけなければいけないこと」と「やっておかなければならないこと」のネタには事欠かない。圧倒的に増える。
また、事故や失敗などの注意喚起がテーマの情報はシェアされやすい。本能的なものだろう。他人との交流に於いてもこれには気をつけよう、これはこうするといいのかと学習する。まぁそれが正解かどうかはともかく。
この辺りでもまだこの予測・対策のパターンは問題がないと言えるだろう。臆病さの因子となりえるが、まだ。ただ、段々と「考え過ぎ」「気にしすぎ」そしてそこからの「やりすぎ」になる可能性が出てくる。発達した予測能力と用心深さと、この予防的態度の「完璧を目指す態度」の釣り合いが崩れだす。
社会規定型の完璧主義の素材
別に褒められたいわけでもなく、完璧にやって充実感を得られるわけでもなく(ここが自己志向型とは違う)、完璧にできなきゃいけないと感じている社会規定型の場合は完璧であることによって得られる感情は「安心」や「義務からの開放感」に近いように見える。「これで文句は言われない」みたいな。
つまりケチつけられるようなマイナス状態からスタートし、ゼロへ戻ろうとする心境。達成ではなく「安心を得るための完璧」。逆に完璧じゃないと不安。
完璧主義者は細部に拘り全体が遅延する傾向があるが、不安に駆られて安心へ向かおうとする人間が、何かを「見逃す」ような真似は絶対にしないだろう。まぁこの点は自分のペースでやっていい分野なんだったらプラスに働くともよく言われている。クオリティ高くなるのは間違いないから。
どうも字面が重くなってしまうが、不安やストレスからの開放を目指すこと自体は日常的なものでもある。原動力になることは多く、このような自らにプレッシャーをかける事自体は人間は普段からよくやっている。それこそ「頑張るため」「しっかりやるために」。少し緊張感を感じていたほうが人間はパフォーマンス上がるという話もあるし。
逆を言えば、過剰な完璧さを実際に目指してしまうだけのそのエネルギーは、課題達成に対しての義務感や不安が強すぎるために起こるのかもしれない。
この場合初めから「やりすぎ注意」を心得ればいいだろうか。「予防的態度」による過剰な不安が原動力だとするならば、「全力で最善を尽くすつもり」の心境であり、ゴールを多分設定していない。タスクにも依るが、やれることがなくなるまでやるつもりというかそんな感じではないだろうか。つまりこの場合には加減が上手い下手以前の話で、加減をつけるつもりが始めから無い。やりすぎ注意を初めに心がけることによって「ゴールの設定」という手順が「タスクへの着手」という心理的モジュールの中に生まれる。…ような気がする。
自己志向型との違いそのものだが、社会規定型の場合はゴール設定が他人が決めるものになっていることが多い。そしてそれは殆どの場合明確化されていないか極端に理想化されたもの(100点満点とか)のため、「やれることを全力で全部やる」つもりになりやすいだろう。過敏型の自己愛もそうだが、義務自己は他者評価に対しての過敏、つまりは「恥」に対しての極端な警戒、対策と予防にも通じる。
擬似的な他者志向型完璧主義
極端に、自分の理想または自分の考える安全を実現しようとして、他者にそれを強引に押し付ける。この構図は他者志向型完璧主義と同じである。
他者志向型の完璧主義はダークトライアド(ナルシシズム、マキャベリズム、サイコパス)の傾向が強いと言われている。ちなみにダークトライアドにサディストが加わるとダークテトラッドとなる。ここまで来ると今までなかったのかよとかそっちが気になってくるが。これらを探る尺度も一応あるにはある。
「素」がこれかどうかは今回は関係ない。対象と感情によって擬似的にこのような振る舞いはあり得るという話。
でまぁ、やられたことがあるんだから、真似をするのは簡単だろう。特に肩入れしているような相手が危険なことをしようとしたら、止めるだろう。その程度が過剰だと、他者志向型完璧主義と同様の言動となることはあり得る。
また、他人事のほうが割と不安な想像は膨れ上がるものだ。自分に纏わる危険のほうが、比較的人は軽視する。どうも「気をつければ大丈夫」って思いたがるようだね。だから自動車事故と飛行機事故では前者のほうが圧倒的に数が多いのだが、恐れるのは後者だったりする。これはリスクの錯覚・バイアスとしてよく言われているのだが、個人的には飛んでる最中に落ちたら気をつけるもへったくれもないから「なんとかなるかもしれない」可能性がある自動車事故のほうがまだマシというある意味正常な判断なのではないだろうかと思う。まぁ大半はなんともならない一瞬だろうから、やっぱバイアスかな。
反対に相手が他人の場合、そもそもの気をつけるかどうかすらわからないわけだ。気づかないままに何かに巻き込まれるかもしれない。相手に対して「自分ができること」は、過剰な心配とその予防を押し付けることだと結論を出してもおかしくない。ただこれは、相手や第三者からしてみれば「何するか分からない奴」としての扱いだったり、「一人じゃ何も出来ない奴」としてだったり、まぁぶっちゃけ信頼されてないなって思わせるには十分だったりする。
結果的にそういった扱いは、相手の自己コントロールを奪い、自分の正しさを押し付けるという形になる。特に過保護な母親が子供に後々嫌われることになったりするのは、これしか方法を知らないからではないだろうか。だから特に自己コントロールにこだわり始める、俗に言う反抗期などで表面化し始める。このような場合、残念ながら、懸念や心配が「正解だったとしても」、恨まれることになりやすい。「自己コントロールを奪ったこと/奪おうとしたこと」を根に持っているのであって、そこに間違いはないからだ。
まぁ根に持ったところで、じゃあ自分でできたのかって言うと怪しかったりするんだけどねぇ。それが明らかになる機会もなくなってしまったのだったら燻るかもしれない。そういうもにょった感情をぶつけられることもあるかもね。
メモ
て い ど の も ん だ い。そして親の予防的態度をそのままトレースしたことによる不安MAXな心境とは「加減する気をゼロにする」。多分人によっては、ここまでがサラッと自然に考えてしまうのだろう。その後でのゴール設定の「調整」を身に着けたほうがいいのではないだろうか。
…この思考パターンのスイッチが「不安」だとした場合、実体のある懸念材料が初めにあるのではなくむしろ「初めに不安を感じる」ことで能動的にスイッチを入れていることはないか。
不安を感じる→実体を探す→具体性の肉付け→対策→安心。だと仮定した場合、「安心を実感するために不安の感情を呼び起こす」ことはあり得るし、それっぽい症状はあるんだよな。