・心理学上は、共感には大別して2つある。
共感は研究者に依って定義が様々だが、情動を強調するもの、認知的理解を強調するものに分けることができる。
情動的共感は感情的な共感が強調される。こちらが一般で言われる「共感」の大半だろう。
認知的共感は認知的・理性的な共感が強調され、思考に近い。
・この区別に於いては、「泣いている赤ん坊を見た母親」という状況がわかりやすい例として挙げられる。
一緒になって泣くのが情動的共感。そんな生き物は野生だったら絶滅する。
「何か問題があるのだろう」とわかるのが認知的共感。これなら対処できるね。
・このように情動的共感はあまり役に立たない事が多く、視野も対象を中心としたものになりがちで、判断を間違えやすい。
一方で人類はこれを「優しさ」みたいななんかよろしいこと扱いするのが多いため、警鐘を鳴らされたりもしている。
簡単な例を挙げれば、ウソ泣きに騙されて正義感に燃えて第三者を責めたみたいな。そう言うことをやらかす。他人事で、我を忘れる。罪はあると思うよ。
このような頭が茹で上がった「正義の第三者」が、大量に間違った所に電凸するなんて話は年に3回位は上がるだろう。まぁただのサディスト(誰でもいいから攻撃したい奴ら)も大分混ざってるだろうけどなアレ。
情動的共感
・情動は、感情って言葉に置き換えたほうが理解が早いと思われる。そのまま感情的共感と呼ばれていることもある。
・一言で言えば「感情移入」がかなり近い。対象との同一化、一体化を果たす。
・制御できない場合には「感情の巻き込まれ」となり得る。振り回される。HSPなどはこれになりやすい。
・Stotland(1969)では「他人が情動状態を経験しているか、または経験しようとしていると知覚したために、観察者にも生じた情動的な反応」。
ここで「反応」とされていることに注目されたし。つまり意識的に行うものではない。自然とやっちゃうもんだね。なのでそう言う悩みもある。他人の感情が入ってくる、他人に共感しすぎてしまう、他人の感情に振り回される、など。
・Gavrilova(1975)では、「他人と同一視することによって、他人と同じ感情を経験すること」となっている。
総じて情動的共感のポイントは2つで、
- 相手との一体化や同一化
- 結果として相手と同じであろう「感情」を得ること
が挙げられる。
情動的共感の良し悪し
・美徳とされがちだが、人間が元から持つ脆弱性ともなる。ウソ泣きに騙されるとか。
・「独りよがりに『相手の感情と思われるもの』との同一化をすること」とも言われる。
これは正しいだろう。根本的な話、人の気持ちを実感することはありえない。脳みそ繋がってないからな。つまりどれだけ「わかった」と確信した所で、それは自身の脳内で作られたイメージになる。
だから「ウソ泣きに騙される」のが情動的共感のせいになるわけだ。泣いてるから悲しいのだろう、余程のことなのだろうと想像させることによって騙せる。
ある者が泣く場面で、その者は怒るのなら、正義感に燃えて、攻撃に至るだろう。
人間は結構、共感や同情により暴走する。この時自分がえこひいきしていることには気づかず、理不尽な言動をしているとは夢にも思わず、客観性を保っていると思っていることが多い。
・同一化や一体化をするか否か。ここが認知的共感との違いだと言える。同時に、同一化をすることが情動的共感の特徴であり欠点だと言える。
「同情による贔屓目」などはここから発生する。被害者は被害者だから「何も悪いことはないだろう」みたいな感じの。
後は意見が分かれるようなトピックにおいて、ある者がその立場にいる時、理由は「かつて自分がそうだったから」というのは多いだろう。
・案の定というか、研究でも女は情動的共感が強い傾向が出ている。
情動的共感性が高い人は、低い人と比べて援助行動を示すことが多いとされる。一方で攻撃行動を示すことが少ないとも。
ただこれはオキシトシンの例のように、味方と見なした者には甘く、敵と見なした者は攻撃的であるとも考えられる。博愛主義か身内贔屓かは個人差があるだろう。
・共感性が高い程、相手の不安を代理経験できるとされている。「できる」なんて言われてるが、あんまりいいことでもない。
相手の話を聞いてただけで、カウンセラーに客と同じトラウマが発生した例もある。これは二次受傷や代理トラウマと呼ばれる。
相手と共感的に関わることで二次受傷のリスクが高まるとされている。カウンセラーとクライアント間での話しだけどね。日常生活でもそんなようなことをやってるのは居る。「やってしまう」のかもしれない。
認知的共感
・情動的共感を「感じる共感」とするなら、認知的共感は「理解する共感」と言える。
この場合の「理解」は言葉通り知ることであり、必ずしも同意を示すわけではない。
・Dymond(1949)の定義では、『他人の思考、感情、行為の中に自分自身を想像的に置き換えて、その人のあるがままの世界を構成すること』。
・Rogers(1957)は、「クライエント(カウンセリングを受ける側)の私的な世界を、あたかも自分自身のものであるかのように感じ取り、しかもこの<あたかも~~のように>という性格を失わないこと」。
つまり「自分のことのように想像/推論している」自覚を失わないこと。同一化/一体化をしないことが特徴としてあげられる。
また情動的共感とは違い感情を得ることを目的としない。相手と同じになることはゴールではない。理解が目的であり、その後どうするかは当人次第である。
・その共感が「自身の思考の産物だ」と自覚しやすいのも良い。これにより感情から一歩距離を置けるだろう。
メモ
共感関係のページ:
[blogcard url=”https://embryo-nemo.com/2637/”]
・女による男に対しての「アドバイスされた!気持ちをわかってくれない!」というアレなアレだが、情動的共感を得るのが目的に見える。
この状況って大体が相談者が自分の感情を処理しきれていない状態で、他人との情動的共有を目的に愚痴りだす。
目的が情動的共感を得ることになっている場合、相手が話を聞いて思った論理的な「アドバイス」は無用の長物になる。
・情動的共感をしやすいとそれだけ他人の感情に巻き込まれやすく、うつとかにもなりやすい。愚痴られる側にとってはマイナスでしかない。
たまにならまだしも、日常的に情動的共感を求める人間は、周りの精神衛生上よろしくない。少なくともやってることが、相手に自分と同じ傷を刻もうとする行為に近い。
こう言えば伝わるだろうか。少なくとも、やろうとしていることが、「同じ気持ちを味あわせてやる」との動機で動く人間と等しい。
共感と軽蔑
・共感が強いと、敵意も強いかもしれない。前述の通り情動的共感が高いと他人を助ける傾向もあったが、それは万人に向けられるのか、常にそうなのかと言えば怪しい。
・メルビン・ラーナーによる公正世界仮説関連の実験では、電気流されて苦しんでいる人間(演技)を被験者たちに見せて、被験者たちはそれに同情を示した(なお、この実験の被験者は全て女性。72名)。
だがその人間を助けられずに、相手が苦しんでいるところを見続けると、今度はその対象を軽蔑し始める傾向が観測された。
どうも助けたいのに助けられないと、「こいつは苦しんで当然だ」と思い込もうとするらしい。合理化(つじつま合わせの自分への嘘)。
初めから同情してない場合(電気流されてる人はこの後で金がもらえるんよ、って言った)、軽蔑するような反応は無かった。
・同情するが助けられない。だから軽蔑する。これにより同情したこと自体が無効化される。
見ていて辛い、だから否定/攻撃する、とも言える。
・ラーナーがこの実験を思いついたのは、「犠牲者を非難する第三者」を何度も見たからだそうな。
また同僚の優しい医者が患者を、学生が社会的弱者を蔑む場面を見たことも一因となった。
つまり「虐待への第三者の応答」を調べるために行われた実験。この結果はラーナーにとっては「案の定」ってとこだろう。
・さらに言えばこれは「権威への服従」に纏わる実験の一つであり、つまり大衆が自国で湧いたナチスみたいなのを相手になぜ服従あるいは受容するのかの研究でもある。
他の実験、例えばアイヒマンテスト(ミルグラム実験)は、権威への命令に内容問わず従う傾向が人にはいくらかある事が見られている。一般人に「人が死ぬかもしれないようなこと」を指示し、実行させたもの。
確かに抵抗を感じる人は多かった。報酬はいらないからやめさせろと言った者もいたらしい。
それでも研究者たちの事前の予測を上回る数が、最後まで指示に従い続けた。
だがラーナーの実験は、被害者への同情心が反転することでの攻撃性という、割りと救いのないものとなっている。