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2つの「自信」 自己愛 自尊心

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自信を自己肯定感として捉えると、自己愛と自尊心の2つがある。根本的に違うのは「何を基準とするか」。自己愛は自分以外のなにかを基準とする。自尊心は自分自身を基準とする。

 

「他者との比較」を根拠にする自己肯定感。

いちいち根拠がいる。自分が優れているという根拠、自分が幸福である根拠、自分が安心していい根拠。

総じてこれだけでは、常に自分と他人を見比べなきゃならない。自己愛は他者比較の上に成り立っている。

この結果として自分は優れているという安心、自分は劣っているという不安、自分が評価されたという喜び、自分が評価されないという不満、あいつは優れているという嫉妬、あいつは劣っているという軽蔑がある。

つまり自己愛はその名前とは違い、実際には「他人」に注目している。その目的は「自分の価値は?」である。

自分を大切にする気持ち。心理学的には自己に対して一般化された肯定的な態度とされている。セルフエスティームとも。

「自分」を根拠にしている自己肯定感。「自分が自分を好き」みたいな感覚。

つまり、一時的に快感を与える、知識、技術、財産、結婚、慈善行為や性的な征服、容姿から生まれるものではなく、言い換えれば、外に求めることでも、人に与える印象でもない[1]。

競争でも比較でもなく、自尊心の重要な原因は自分とも他人とも戦っていない状態である[1]。

Wikipedia:自尊心

 

ありのままの自分を肯定し、受け入れる精神的態度。

よく人格的・精神病的な話になると「親の愛情が足りなかった/歪んでいた」って話が出るが、「存在するだけで肯定される」のと「存在するだけじゃ肯定されない・存在するだけで否定される」では自尊心に違いは出るだろうね。

ただ、幼少期に過剰に愛されることもまた人格的な障害の原因としてあげられることがある。まぁ度が過ぎたらなんでも毒だと思えばいいだろう。

こうしてみると存在価値の認識、プラスのアイデンティティとも見える。

これがあると精神的に打たれ強い。他人が何を言ってもあまり真に受けない。

で、これがないとなんか居ても立ってもいられないレベルで不安になるらしい。その埋め合わせとしてインスタントに満たしやすい自己愛の方を満たそうとする。

 

自己愛は無いほうがいいのか

まぁ一般で使われる言葉のイメージが悪いもんで毛嫌いされがちではあるのだが。

どうせ人間殆どが、潔癖症で完璧主義的な側面を持っているわけで、あなたもまた自己愛はいけない、自尊心を持とうと心新たに希望に満ち溢れていることであろうが、自尊心だけで生きるのは簡単じゃないだろうねと。

まず自己愛だけ(つまり他者比較において自身が優れているという証明を自分にし続けること)でしか己を満たすことができず、自尊心がない故に不安は発生し続ける場合、当然自分が生きづらい。これはまぁ、問題だろう。

ただ、自己愛が満たされるというのはある意味では「自分の社会的な価値を確信している」とも言える。まぁ、病的な自己愛の場合それが捏造レベルなのだがそれは置いといて。

満たしたところでその場しのぎな側面が強いのは確かだ。社会的な価値にしたってそれは立場とか、権力とか、社会の価値観とか、そういった話になる。

簡単に例えれば、どんな大会社の重役だろうが、街歩いてりゃただの爺さんだ。少なくともその人物を知らなければただの爺さんとして目にして、全く用もないからそのまま忘れるだろう。

つまり「自己愛による自分の価値は厳密には本人に付随していない」。なぜなら、評価者/自信の根拠は「他人」だから。他人が知っている、あるいは知らせる必要がある。

でまぁ、いるだろ。「俺を誰だと思ってるんだ!」みたいなジジイが。あるいは先手を取って「自己紹介」する輩が。そういうのもいる。この場合は社会的に評価される部分を見てもらえないと安心できない = 「素の自分」のままでは安心できないということになる。

すぐにまた自己愛を満たしたくなる面も問題となる。そもそもその飢えが、自尊心が低いことからくる不安なのだとしたら、自尊心の必要性自体は疑いようがない。

自尊心が折れる時

一方、自尊心の場合にはある意味自給自足が成立している。一見問題はないのだが、人間は前に進みたがるものだ。成長欲求と言うか、恐らく成長そのものに対して何らかの魅力・義務・使命感的な物を感じている所がある。また、退屈は何より嫌いで、新しいことをやってみたい時もある。

また、自尊心を自ら育むためには「自らが判断・選択・決定」し、「自分の可能性を実現するため自分で生き方を決める」ことが重要であるとされる。だが、じゃあ、それが間違ってたら。それで後悔するとしたら。誰の責任になるか。当然自分だ。「犯人」は自分になる。

要するに、自尊心が「試される」ような機会を自分から作り、赴く傾向が強い。中にはポッキリ逝ってしまうこともあるだろう。これを避けるなら、結局の所は過敏型自己愛のように消極的にならざるを得ない。

できなかった、やれなかった、できると思ったのに、信じていたのに。要は「挫折」。この時、改めて無根拠(どころか懸念材料を抱えたまま)に自身に対して無条件の愛を注ぎ、無条件の信頼を置けるだろうか。なかなか難しいだろう。

まぁ好きではある。初めから自分で背負って、自分で責任持って、自分で決めるというのは、「自分の人生を生きる」事においてある種の理想の体現でもあろう。だからこそもうちょっと生存率伸ばそうぜと思わなくもない。

ストローク

交流分析のストロークで考えると早いんだが、要は「自尊心だけ」ってのは、ストロークをプラスもマイナスも受け付けていない状態ではないかと思う。自身に対する、自己承認欲求を満たすこと(つまり自分で認められる自分で居続けること)だけで、やっていこうとしている。

現実に自尊心が高い人はどうしても排他的な雰囲気をまとっているように見られることが多い。

実際褒められてもピンとこないとか、自分が納得してないのに褒められても邪魔だとか、そういう感覚を持つ人もいる。これはそのタスクに初めから他者の比較ではなく、自分の理想の実現・体現として取り組んでいるからだ。一位かどうかはどうでもいいが、自分が納得しない限りはダメ。そういう領域。

割と精神的に頑丈ではあるが、逆に外からの供給をする気がないストイックな態度とも言える。言い方を変えると、「自分を信じられなくなったら割と立ち直るのが難しい」。

これを避ける、あるいは復帰するためどの道、「予備」として自己愛を供給できるようにはなっておいたほうがいいのではないか。

以前の記事で書いたコフートの理論によれば、結構満たし方はあり、その中には些細なことで満たされる「健全な自己愛の満たし方」もある。

http://embryo.blog.shinobi.jp/psychology/414

改めて見直してみると、これ書いた時の「自己愛を満たす必要性に疑問を感じる」ってのは大体合ってたことになるか。自尊心の方が核となるなら。

後はアレだな、「人が無意識に行う不安の解消の仕方」とも見える。

まぁ普通にストロークとして捉えて周りの人間と仲良くやってきゃいいだけの話な気もする。

自己完結

それでも自己完結に拘るのなら、日記を書いたりログを取ることくらいしか思いつかない。過去の自分と比べる。そのためには割とネガティブ中心に記録する必要があるが。

それを乗り越えた、あるいは当時深刻だったのが今はどうでもいいと思えているなど、「被害者」が存在しない、「罪悪感」が沸かない自己愛の満たし方。割と悪くないと思うが。

ただこれ、満たしてるのが自己愛なのか自尊心なのか自分で考えといてよくわからん。過去の自分を他人とすれば自己愛だが(過去と現在の比較)、全部自分だしな。自信の根拠がどこにあるかで定義すれば、自尊心になるのか。

 

 

メモ

どっちも度が過ぎたらロクでもないものになるのは確か。、かつ根拠・実績があるものが「」として理想だろうか。いや、根拠・実績から自尊心を培う?

どの道、「超えないほうが良いライン」が「上にも下にも」あるのは確か。

 

  1. 自尊心がない
  2. 自己愛を満たそうとする
  3. そのためには「他人が自分を見てるかどうか」に注目する必要がある
  4. =自分は自分を見ない
  5. =自分を好きになれるところは見つからない
  6. 自尊心がない

無限ループ。

 

 







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この記事は【2018年9月2日】が最後の更新のため、記事の内容が古い可能性があります。

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