「当たり前のことができない」と思う時の当たり前は何か

 別に解決はしないし励まさない。

 文中、「できない」としているが、実際の所はクオリティが低いとかそのくらいのことの方が多い。

まぁ、当たり前を疑ったほうが良い。その上でできるようになるべきこともあるが。

「当たり前」の二種類

 当たり前の正体としては所詮「主観」なのだが、さらに2つに分けておく。

 自分にとっての「普通」だったという意味での当たり前。

 「自分が思い描く世間の相場」という意味での当たり前。

当たり前のことができなくなること


 病気や怪我などでこれはあり得る。自分にとっての「今までの普通」が損なわれるケース。

極端な話、事故で両腕でも失えばこの境遇となる。

 特にうつ病では元から大体生真面目な性格であり、その状態で今までできていたことができない、症状が重ければ朝にゴミを出すことすら辛くなる。こう言ったわけで自分を責めやすい。

 認知症でもそうだ。できたはずのことができなくなる。自分がメシ食ったかどうかが本気でわからんレベルや、かなり特徴的な例としては「鏡に写った自分が自分だと認識できない」ということもある(鏡現象)。
どうも自分が老人だと忘れる→鏡に写るのは老人→知らん人だ、と認識し、コミュニケーションを取ろうとしたり追い払おうとしたりするらしい。

それらを「老い」だと認めるにも限度がある。彼らは時々心が現在に戻ってくる。その時に自分が情けなくて泣く老人もいる。認められずにキレ散らかす老人もいる。

これらは能力的なフレームの話。

 心理的/認知的なフレームとしては、トラウマなどで「今まで平気だったものが急に怖くなった」などがある。

例えば、今までなんとも思わなかったが、一度溺れかけた経験から風呂すら怖い、など。

当たり前のことができなきゃいけないができない

 一部は上記と重複するが。例えば発達障害が定形(発達障害じゃないヒューマン)と同じことができない、あるいは可能だが極度に苦痛で悩むというのはよく聞く話だ。 まぁ定形でも嫌なもんは嫌なのだが。

今では特にHSPがその話題が多いだろうか。日常的なあれこれに実は苦痛を感じている、みたいな。

この場合「世間」が当たり前のベースになっている。自分じゃない。

 あるいは世間の「当たり前」に適応しようと血を吐いているなど。全員が背伸びしすぎて足つってるようにも見えるね。各種のステレオタイプへの順応を試みるすべての者に当てはまる。

ともかくこれらは元から自分の当たり前じゃなく、それに適合しようとしている苦しみという点がかなり目立つ。
自分の自然体と世間の普通との温度差。この上で、そうしなくてはならない場合もあるのだが、勝手に「そうしなくてはならない」と思っている場合もある。

理想と義務と現実と自然体

 大きな問題は、現状と理想/義務とのギャップだと言える。この上で理想(あるいは「当たり前」という形の義務や責任)に届かない。

特に「義務」の場合は今すぐ遜色なく負担を感じずできなくてはならない、みたいな高いハードルになったりもある。

 理想/義務が間違っている場合もある。前述のように「当たり前」が自他の主観である限りその可能性はあるのだが、その信者が一定数いる場合「暗黙の了解」となり、妥当性とは無関係にそのような空気になりやすい。

完璧主義者のように、自分でかなりハードルを上げているケースも有る。

 これらは「成長」あるいは「順応」という要素を加味すれば、時間による解決が可能ではある。つまり感じているのが義務ではなく「理想」の場合は。

逆に義務は「今、そうであらねばならない」みたいな余計なオプションが付くため、かなりストレッサーになりやすい。

世間の当たり前か、かつての自分の当たり前。あるいは理想の自分の当たり前。どちらも今の自分の自然体とは別物であり、そこよりも背伸びした所にある。これはほとんど完璧主義の話に近い

真と偽  

 何れにせよ、まずは「今の自分の当たり前(自然体)」を把握してはどうか。「そうじゃないもの」は、「自分にとってタダではない」と把握する必要はあるだろう。

これを無視して自分が思い描く「普通のフリ」をするのなら、すり減る。まぁ成長、順応はあり得るが、それなりのペースでなければ消耗するし、最悪、様々な意味で後遺症もあり得る。

 人間の自然体を「真」、人為的(意識的)な姿勢を「偽」と呼ぶ考え方がある。

偽と言っても悪い意味ではなく、字を見れば分かる通りに「人為=偽」で「意識してやること」程度の意味。コンフォートゾーンとストレッチゾーンの概念に近い。

我々が社会と接触する面はぶっちゃけて「偽」である。人目を意識すると大体スペックが上がったり、社会的になるという研究も多い。緊張したり、見栄を張ったり。募金箱に目玉のシールが貼ってあったら、それだけで募金額増えたりだとか。

勝手にそうなるので真なのか偽なのかわかんなくなってくるが。この時人は本来感を感じるどころか損なうので、やはり「偽」なのだろう。

人の自然体はもうちょっと非社会的である。あらゆる人間は何かしらだらしないし、何かしらウザいほどに細かい。これに自覚がない場合、その部分に限れば家の中と外の区別がついてないとも言える。

 「当たり前のことができない」というのは、自分の「真」の否定としての意味を持つことがある。だが伸ばすべきは「偽」であり、そのためにも真と偽の差は把握するべきではないのか。

殆どの場合、「真」を度外視して、ただひたすらに「当たり前(真)じゃない当たり前(偽)」の枠の中に自分を押し込めようとしている。

それがわたしにとって嬉しい変化か悲しい変化かはわからない。どちらに変わってもわたしは二度と幽霊を信じない。「当たり前」を信じない。「みんな」と同じふりをしない。

https://www.e-aidem.com/ch/listen/entry/2017/04/19/110000

この中での「幽霊」は、「みんな」という概念を指している。みんなはこれが普通、みんなこれが当たり前。相場の擬人化、とも言えるか。「世間」という言葉もだいたいそうかな。

前述の通り、「みんな」が背伸びした上で「これが普通」とするせいで、「みんな」の水準は上がる。言い方を変えれば、「偽」が「真」として扱われている。

まぁ努力だの我慢だのも時には必要ではあると思うが。どちらかといえば問題は、「偽」を「真」としているという一点だろう。偽は偽、真は真とどちらも認められるのならば、それで済むと思うのだが。

「真面目な場面だから真面目でいる」となぜ言えないのか。「昔できたが今はできない」となぜ言えないのか。「できるが苦痛だ」となぜ言えないのか。なぜ寝ても覚めてもそうであるかのようなふりをするのか。見栄だろうか。未練だろうか。恐怖だろうか。

確かに「当たり前じゃない」と糾弾する輩はおり、個人の問題とは言えないのだが。

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