コンフォートゾーンから見てみる。
主にパフォーマンスを発揮することと難易度との関係についての概念。
- コンフォートゾーン:快適でいられる領域:やり慣れた、特に気負わずにできる行動。
- ストレッチゾーン:ラーニングゾーンとも:真剣にやらないと失敗するかもしれない、適度な緊張が必要な領域。
- パニックゾーン:緊張する、テンパる。
これはそのまま「望ましい困難」のおさらいともなる。
楽すぎると勉強にならない。難しすぎると認知負荷を起こす。難易度は適切でなくてはならないと。
ストレッチ/ラーニングゾーンだけ少し説明が必要そうだが、主にパフォーマンスを発揮する側面を指してストレッチ(能力的にちょっと背伸びしないとできない)ゾーン、今はできないとわかった上で出来るようになるための練習・学習する意思がある場面としてラーニングゾーンみたいな使われ方がする。
大抵の場合、1つのトピックでどちらか片方しか使われない。テーマに依る。ストレッチゾーンの方が中庸で、使い回しが効きそうだけどね。
TED:自分にとって大切なことがもっと上達する方法 | エドアルド・ブリセーニョ
ラーニングゾーンとパフォーマンスゾーンと呼んでいるが、それぞれストレッチゾーンとコンフォートゾーンに統一する。
コンフォートゾーンは彼の意見としては、「失敗を最小に抑える」傾向があるとする。安全第一。悪い言い方をすれば「小さくまとまる」傾向。冒険はしない。
ストレッチゾーンは実力を発揮する領域。ラーニングゾーンとしては学習、つまりは今の自分の実力以上になるためのことだから、相対的に挑戦的な属性を持つ。
安全第一と一生懸命は違うし、どちらかがいらないというわけではないだろう。コンフォートゾーンから抜け出せーってのは、まぁある程度円熟したら人は防御に回ることを織り込んでのことだ。コンフォートゾーンがいらないわけではない。
ストレッチゾーンは失敗があり得ることに注意しなくてはならない。つまりコンフォートからストレッチゾーンに入るに必要なのは、それを織り込んだ「挑戦」への意思である。別に言うほど覚悟とかいらないが。安全、確実、というわけでもない。
逆に安全欲求が高ければ高いほど、コンフォートゾーンから出たくはないだろう。これは個人の嗜好もあろうが、責任感もあるし、対象に依る部分も大きい。特にエドアルドも言っている他者の目を意識した諸々の心理や社会的な「空気」は大きい。
「コンフォートゾーンから抜け出す」というスローガンと限界的練習
コンフォートゾーンは見方次第では「自分の殻」でもあるのも間違いない。だからか「コンフォートゾーンから抜け出す」みたいなことを言ってる人は割と見かけるのだが、コンフォートゾーンしか知らないと最悪パニックゾーンに飛び込むかもな。
「心地よいぬるま湯から抜け出す」と言ってはいるが、前回やったとおり「居心地が悪い上に成長率がコンフォートゾーン並み」という最悪なことが発生し得る。
ただ、ここで挙げられている限界的練習は、漠然とした成長を期待するのではなく、ゴールに対してシビアなため、「居心地が悪いぬるま湯」にはなりづらいと思われる。
これは言い方を変えれば脳の「動物的な部分」でも「まだできていない」と分かるレベルでゴールを明確化することが、一つの「身につく前に慣れる」ことへの対策だと言える。言い換えれば、一つの努力に対して、都度、「達成したかしてないかバカでも区別ができるレベルにゴールを明確にしろ」といえるか。
この上でゴールは目前になくてはならない。長期的だと「風景」と化す。「見慣れてしまう」だろう。
社会的な要素でコンフォートゾーンに留まりたがる
失敗できないという空気、間違いの拒絶。そこから学ぼうとしない。
なぜなら間違いは「あってはならない」という扱いをされており、研究対象にされない。
総じて「人前」はコンフォートゾーンであるべきだという認識が生まれる。完璧主義的な空気が作られると動画でも言っているね。
逆を言えば、「人前」で何かアウトプットをしようというのは、それだけで良くてストレッチゾーン、悪くてパニックゾーンになる。
ただ、別件だが、現実にはプロフェッショナルほど「ミス」を徹底的に潰すような練習方法を自然と行う。某研究では、このやり方が最も学習効率が高かった。逆に効率悪かったのは要点を絞らないただの繰り返しだった。
つまりは間違い、ミスは「課題」そのものだ。そしてそれを「あってはならない」とする矛盾。
なんてことはない、一般人の行う「普通のフリ」は学習効率が悪い。
これに対してリスクの少ない島を作れという。すなわち実験場、練習場の構築。安全基地、秘密基地と言ってもいいか。
なんだったか、外国のアルコール中毒かなんかの集まりで、各々自分の失態をカミングアウトするようなことをやるんだが、その時のルールが聞いてる連中は「絶対に意見しない」みたいな感じだった気がする。
逆を言えば、社会は受容とは正反対なんだろう。そりゃ萎縮するな。そのせいか割と多くの人が面従腹背というか、社会を一種の仮想敵に見立てている気もするが。まぁ仮想も何も実際になぁ。
多分それで「普通の人」だろう。完全適応したらソシオパスに近い。逆を言えば「社会」のパーソナリティは、人間だったら瞬時にリンチされるような面がある。
これらは「堂々と練習できない」ということを物語る。
こんな背景があるから、「コンフォートゾーンに入り浸ることに慣れてしまう」という面もある。
処理と成長
前回やったのは無意識的な慣れであり、当人の自覚としては目標未達成だった。この動画では明確に当人が「もう十分だ」と感じた際に成長が止まることが語られている。
専門職でも成長は止まる。つまり、「それに専念しても成長は止まる」。意識か無意識か、そのどちらかが「もう十分だ」と思ってしまえば。
ゲームで、「弱すぎる敵」を倒しても経験値ゼロで全くレベルが上がらない仕様なのがたまにある。まさにそれと同じだろう。他にも同じ場所で狩り続けるとペナルティとかあったな。経験値にマイナス補正入る。
大器晩成というが、まぁ、自分はまだまだ未熟であると思っている者のほうがまだ伸びるということ。
一部の人には感情的に納得がいかないのだろうが、見方を変えればこれは、「自分の伸びしろを認識できるかどうか」ということに他ならない。もう十分だ、完璧だ、と思うのは伸びしろが見つけられないことを指す。意識的な努力をしたり、方針を持つ「余地がない」。
「慣れ」というもの
今回では2種類。
一つは「タスクへの見慣れ」
思うに慣れというのは本当は「慣れ」ではなくて、お脳様が勝手に「知ってるつもりになって先走っている状態」ではないだろうか。
これアインシュテルング効果にも通じるが。わかったつもりになって知ってる方法をやろうとするから、目前のもっといい方法を見落とすという。
さらにハンマー釘病からもそう考えられる。これも「出来ること」を軸として問題を解決しようとするから、時に無理が出るという話。
これらは脳が「知ってるつもりで事に当たる」からではないか。大抵の場合はそれでスムーズなんだが、いざ突き当たるとちょっとめんどくさくなるね。
むしろ「知っている」という認知を「作る」ことが慣れのシステムの目的に思える。実力とは関係なく。
だったら学習に於いては「(もう十分だと思わせ)学習の動機を消す」という最悪な形で手抜きをしたがる馬鹿野郎なモジュールという立ち位置になるので、まぁ難易度管理するなり本当に十分かの確認をするなりしたほうが良いだろう。
もう一つ、「状況への慣れ」、こちらが恐らく問題になっている。「できないという状況になれてしまう」「下手であることに慣れてしまう」「苦痛に慣れてしまう」etc。
この慣れは平気になるのではなく、「何も感じなくなる」「何も疑問に思わなくなる」ということであり、恐らくこれは「適応」だ。これは成長への内発的な動機が全く生まれなくなる。こっちの方が危険がある。
慣れようとしたことに慣れるのは結構なことだが、いかんせん無意識的に勝手に慣れるので、時には問題になるな。
ともかく、認知的な慣れ(当人がそれをどう認知するか)と、実際の能力として十分だという意味での慣れと、2つある。前者の方が先に発生しやすい。「まだだ」と思える工夫はした方がいいのだろう。まぁ伸ばしたい方面に対しては。