アダルトチルドレンの原因は家庭だけの話だろうか

いつもどおりに「程度の問題」。

意外とACのタイプに強く当てはまり、それでいて家族仲はいいって人は(自己申告だが)いるわけで。

自覚がない傾向があるのは確かにそうだが、実際に家族が原因じゃない場合もあるのではないか。

キャラクター

近年においては,表面的な友人関係の中でキャラを演じることのストレスについて,メンタルヘルスの文脈からも取り上げられている

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsyap/26/2/26_129/_article/-char/ja/

役割として演じ続ける結果の「在り方」への侵食。

つまり学校、会社、あるいは地域的なもの、あるいは国、あるいは性別による隠れたカリキュラム、あるいは何らかの変更不可能な(あるいは困難な)パーソナリティに付随するような「立ち位置」などにより。

マイノリティは特にそうだが、マジョリティを「演じている」実際の所真実マジョリティな人々もまた。

学校や会社は、家族とは違って変更は可能だろう。ただ、簡単じゃない。もしもなにか問題があり、苦労の果てに転校・転職したら、きっとこう思うだろう。「次はうまくやらないと」。

「キャラ」を一生懸命演じることにはなるだろうね。以前より。

役割

本研究ではキャラを, “小集団内での個人に割り振られた役割や,関係依存的な仮の自分らしさ”と定義する。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsyap/26/2/26_129/_article/-char/ja/

この定義で考えれば、対人・状況に於いての全ての「キャラクター」という概念自体が、アダルトチルドレンのタイプとどっこいどっこいな「適応するために自らに課した役割」な気がする。

上記引用先では人はこの役割を複数持ち、それぞれの場面・状況に応じて使い分けるとされている。

ユングのペルソナとここで言う人間関係上のキャラクターが違うのは、他律的、つまり自分の意志ではなく、状況や外的な理由によってそれが決定され、「演じさせられている」という意識がある点が挙げられている。

かと言ってそれを捨てたところで今度は本当の自分とはなんぞやだとか、どうしたら良いかわからないだとか、そういった感じになるだろうが。

そう考えると自他への「キャラクター」の設定はヒューリスティクスのような暫定的な行動方針、また他者への暫定的なレッテル貼り=扱いの方針の決定となる。

簡単に言えば、キャラが決まってれば付き合い方や振る舞い方を決めやすい。つまりは「適応を目的とした自他に対する決めつけ」とも言える。

「野球やろうぜ! お前ピッチャーな!」みたいな。

一対一だと緊張する人

人と会話する時に「二人きり」と「三人以上」とどちらの状況が話しやすいかは、結構意見が分かれる。

特に後者の場合三人以上つまり誰かが発話者でも受話者でもない「オーディエンス」になる状態a)(話す時は全員話を聞いてるのを前提にはしているだろうが、それでも「誰か」を中心として話しかけるだろう)が存在する関係(「群れ的な人間関係」とも)のほうが過ごしやすいと言うなら、結構キャラクターに頼っているかもしれないね。1:1だと緊張するってのなら特に。

自他へのキャラ設定は人間関係のスムーズ化とも取れるし、簡略化とも取れる。ただ、雑味がなくなってパターン化しすぎるということは、ラケット感情はないが、交流分析での「ゲーム」化に近い気がする。

決まりきった、同じ終わり方をする、何度も行うやり取り。ラケット感情ないんだからいいっちゃ良いんだが、飽きそうだな。

血液型とかそういうの

例えば初対面で血液型聞いてくる奴とかいるわけだが(別に出身地だろうが星座だろうが趣味だろうが年齢が上か下かだろうが話は同じだが)、これも一種のレッテル貼りやキャラクターの把握をしようという習慣的・習性的なものだとしてみよう。

つまりこう言ったことが本能的なもので(バイアスとか考えると可能性は高いが)、将来的に仲良くなるにしてもまずは何らかの「当て推量」のネタは欲しい、と。

初対面が一番緊張するし、お互いに一番情報がないからね。自然な心理ではあるかもしれない。

ただ、現代に於いては複数のキャラを演じる機会が多く、「キャラクター同士の関係」に終止することが多いと言われている。簡単に言えば、相手のことをよく知る暇がないから上辺だけの関係が続くことが多い。

そういった背景があると血液型を初対面で聞かれて不満ってのも納得行くだろう。流れ作業のように対応の仕方決めるぞって宣言、もっと悪く言えば、「レッテル貼るぞ」って宣告に受け取られる。

そう言われた(と思った)ら、喜ぶ奴は少なかろう。

実際にそれを元にキャラクターのレッテル貼りをする輩は多いわけで。前述の「キャラクターは他律的に決められる」というのとぴったり該当する代表的な流れだ。しかもそれがずっと続く可能性が高いわけだし。

さっきの野球で言えば、自分がバット持ってから言えば相手がピッチャーになるの断らせないことができる。あるいはグローブとボールを相手に押し付けてから言うとか、そんな感じになる。

強迫性

前述の1:1だと緊張するって話、あれも「キャラクター同士の関係」が人間関係の基準だからそう感じるのではないか。

自分で選んだわけじゃない。自分で望んだわけじゃない。その上で、それを演じ続けなければならない。「日常的な、友好的な人間関係」でこういった要素がある。

なんかもう友人(笑)とかだが。引用先の調査読んでみるとわかるが、いじられ役とかドMとか、スケープゴート的なキャラクター設定が多いようだし。

これではもう「野球やろうぜ! お前ボールな!」とかそんなんだ。ジャイアンかよお前ら。「普通」でこれでは、ちょっとな。

冒頭の通り、程度の問題ではあるのだが、どうも近年では「役割」に対して義務感や強迫性を強く感じる人も増えている気がする。

うつ病のディスチミア型にしたって、「義務や責任への拒絶反応」としてみれば辻褄が合う。で、実際にそれらに向かい合ってる時にはうつ状態になっている。だからサボってるとかやる気がないとか思われがちらしいが。

強迫性を強く感じる人にとっては、キャラクターを演じることに苦痛が伴うだろう。こうでなくてはいけない、このままでなくてはいけない、我慢しなくてはいけない、と。

この強迫性を突き詰めれば、「この役割でなければ居場所がない」という観念に行き着く。これはアダルトチルドレンと一致するだろう。

人それぞれだが、確かにアダルトチルドレン同様に自覚がなく、他者に人間関係に於いて忠告されるまでは問題に気づかないケースもある。人に言われるまで「自分がいじめられていることに気づかない」というケースもある。

処世術としてはロストワンが正解ってのもあるかもな。アダルトチルドレンって言うよりもう「キャラクター症候群」とか呼んだほうが早いんじゃないのか。

最悪なのは当人の問題よりも押し付けた(あるいはそうでなくてはならないと思わせた)側の問題であることが多そうだってことだ。これもアダルトチルドレンと同じかな。

どうも人間のこう言った習性を悪用しているタイプが「普通の人」の中に混ざっている気がするが。

脚注

脚注
本文へ戻るa (話す時は全員話を聞いてるのを前提にはしているだろうが、それでも「誰か」を中心として話しかけるだろう)
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