・どれも理性的/合理的な計画に基づいた実行能力の要素となる。簡単に言えば、「長期的な目的を叶えるために必要な能力」ではある。
これらの能力は、一般にメンタルの強さだと思われている傾向がある。
だが、かなり外的要素に影響を受けること、そしてわざわざ迷うようなバイアスが人の頭には備わっていることは強調しておきたい。
マシュマロ・テストについて
・自制心や意志力について。まず、マシュマロテストを噛ませ犬にする。
未だに「子供の自制心を調べるテスト」だと思われており、その上で「自制心があれば将来成功する」とする所があるが、再現実験の結果は芳しく無く、かなり限定的な結果だとされている。
・最初のテストはキャンディーで行われた。こちらは「家族が揃っていること」が喜びを遅らせる能力と関連しているとされた。
一般に知られるマシュマロ・テストは1970年にミシェルとエッベセンがスタンフォード大学で行った実験の方だろう。
職員の子どもたちが通う、学内の付属幼稚園の4歳の子ども186人が実験に参加した。
被験者である子どもは、気が散るようなものが何もない机と椅子だけの部屋に通され、椅子に座るよう言われる。
机の上には皿があり、マシュマロが一個載っている。
実験者は「私はちょっと用がある。それはキミにあげるけど、私が戻ってくるまで15分の間食べるのを我慢してたら、マシュマロをもうひとつあげる。私がいない間にそれを食べたら、ふたつ目はなしだよ」と言って部屋を出ていく。
我慢できたかどうかと、成長した後の社会的な成功とに相関があるとされた。
・一方で2018年5月25日に「マシュマロ実験の結果は限定的」とする研究結果も発表されている。こちらは被験者が900人以上だった。
こちらは被験者の親の人種や学歴などの内訳もアメリカ国民を反映させたものであり、結果は親の年収などで調整された。
こちらの実験では、2つ目のマシュマロを手に入れられるか否かは「子供の社会的・経済的背景」に左右されること、将来的な成功も同じくそれに左右されることとする結果となった。
身も蓋もない言い方をすれば「金持ちか貧乏かなどの『環境』が、子供の将来の成功に影響を与える」ということになる。
重要なのは3歳の時点での家庭の年収と環境であり、自制心はこれらによる不利益を覆す程ではなかったとされている。
まぁ、貧富の差については社会派の人がやってくれ。まかせた。こちらは認知の話をしよう。
・それぞれの子供にとって、マシュマロの価値が違う。
極端な話、毎日いくらでもマシュマロ食える環境下にいる金持ちの子供は、そもそも1つ目のマシュマロに比較的欲求を感じないだろう。
反対に貧しい家庭の子にとっては「めったに食べられないもの」になる。アイテムに対しての評価が全く違う。関心度も。
初期のキャンディで行われたマシュマロ・テストでも経済状況を調べて同じにしたとされているが、個人的には正直疑っている。なにせキャンディを我慢できなかった子どもたちは、父親がいなかったのだから。
この上で、貧しい家庭の子は「二個目を得る」ことにモチベーションが湧かないと指摘されている。それよりも、目の前にある「めったに食べられないもの」を確保するべきだ、と認知しやすい。
・合理的な考えは、ほとんどが「今我慢して、未来で利を得る」形のものだ。では未来の存在や「約束」自体を信じられなかったら?
貧しい家庭の子たちは、親との約束が守られないことが多い。親には裏切るつもりはなくても、どうしようもないこともある。
貧しい家庭の子どもは「今日食べ物があっても明日はないかもしれない」という可能性が常にあり、経済的な理由から「買ってあげる」いう約束が破られることも考えられます。
https://gigazine.net/news/20180605-marshmallow-test-rich-kids/
これが「よくあること」だとしたら、「今」のチャンスを選ぶのは自然なことだろう。
彼/彼女達は決して短慮とは言えない。それどころか非常に「合理的」な判断をしている。その世界観に応じた合理的な判断を。
・以上が真だとすると、スタンフォードのマシュマロ・テストは「そもそも被験者の自制心を公平に計測できていない」ということになる。
同時に、私達が「自制心」だと思っている「それ」の不足も、自制心の問題ではない可能性が多々あるだろう。
・一応言っておくと、再現実験で同じ結果にならないことは結構ある。
「もっと良い選択肢があるのではないか?」
・優柔不断と先延ばしに関する話。
・FOBOという概念がある。 Fear of better options 。そのままの意味。
アメリカのベンチャーキャピタリストのパトリック・マクギニスが提唱した。
優柔不断の一言で片付けられそうだが、選択における失敗恐怖症だと言えるだろう。やはりというか、完璧主義者に多い。
・ただFOBO自体は気質や性格的特徴とは言えず、日常で経験しうる。
彼自信がしているたとえ話として、「amazonで白い靴紐を買う」という例がある。
200を超える種類の中からたった一つを選ばなければならない。
「朝のカフェラテより安い2本の紐を買うために驚異的な量の情報を処理します」。
このような苦労をしながら1つを選ぶ中でおそらくFOBOを体験するだろう、と。
・この上で何が悪いかと言うと、単純に「割りに合わない」苦労だという話。品質と値段が最高のバランスの靴紐を見つけるよりも、自分が満足できるラインを基準としたほうが決断は早い。
もっといい選択肢があるのではないか?といつまでも気になり、意思決定を行えない。
ようやく決定できても、「選ばなかった選択肢」が気になって、現状に対して不満や後悔を募らせる。
The Guardian のFOBOの記事内では「約束してからキャンセルするかもしれない」とまで書かれている。
マクギニスはFOBOをナルシシズムによって動いているとしている。周りの人を待たせて、自分の都合を最優先にしているからだそうだ。
FOBOは幸福感を減らし、健康に悪影響だとされる。
重要なのは、この認知プロセス自体がその原因だとされている点だ。選んだ結果がアタリかハズレかは関係ない。
選択に対しての2つの態度
・The Guardian のFOBOの記事では、選択に対しての人々の態度を2つに分けている。
maximiser:最大化者
・選択の最大効果を狙う。後に最大の利益があるかどうか。
「将来必要になるかもしれないから」と実際に必要とするよりも大きな車を買うなど。
・「高い基準を設定し、それに到達できない時はがっかりする」とされる。今持っているものよりも「失ったもの」を気にする。やはり病みやすいタイプの完璧主義とかなり傾向が似ている。
また、決定による心理的な利点を見逃しているとされる。物質主義と言えるか。
・個人的に思うのが、生物の超正常刺激に似ているなと。
アレも非現実的な「理想」があり(自分の4倍の大きさのメスが理想のチョウ、ビール瓶をメスだと勘違いするそれより遥かに小さいタマムシなど)、それ故に最高のものを選ぶような仕組みだと言える。
完璧主義の内、直感的に完璧な完成形のイメージや、それを考えなくてはならないと思ってしまうタイプもこれに近いと思う。この上で全力を出させるための実現不可能な理想像を「義務」だと認知しているような。
satisficers:充足者
・Satisfied(満足) と sufficed(充分) を組み合わせた造語。
選択の基準が「現時点で満足できるかどうか」であるとされる。相対的にmaximiserは「未来」を気にしている。
・フロリダ州立大の研究では、maximiserと比較した時の選択の満足度は充足者のほうが高かった。
FOBOになりやすいタイプ
・カナダのウォータールー大学で、意思決定に於いて「最高の選択」をするためにやたら調べる人を「追求者」とし、その調査を行った。
・損か得かを追求するタイプは、むしろ決断は早く、それに対して後悔も少なく、選択に対しての満足度も高いとされる。
・一方で、他人ならどうするか、他人にはどう見えるかなどを気にする「評価重視タイプ」は何度も何度も検討し、捨てた選択肢をまた拾う。このため決断できない。
これは言い方を変えれば「無限ループの果てにリセット」と言える。時間が無限にあってもまだ決断できなくなる。
また、うつや先延ばしの原因になり得るとされる。
・人目を気にする傾向は、社会規定型完璧主義に似ている。
FOBOの対策
・パトリック・マクギニス本人がTEDでFOBOについて色々言ってるのでそれを。
「詳細に調べたくなる誘惑を退けましょう」
耳が痛い。
・大きなポイントとしては「考えるべきかどうかをまず考えろ」という点だろう。FOBOの傾向が高い人は、自動的に些細なことを含む全ての選択で「最適解」を出そうとする。
次に「どうでもいいならさっさと決めろ」という点が挙げられる。
これらはリソース管理だ。些細な選択に対して時間と頭脳を奪われないための。
参照:
https://gigazine.net/news/20180605-marshmallow-test-rich-kids/
https://www.lifehacker.jp/2019/12/204479learn-to-make-decisions.html
顔面/表情フィードバック仮説
・コントロールについて。聞いたことがあるかもしれない。割り箸なりペンなりを歯でくわえて人工的に笑顔の表情をつくり漫画を読ませると、普段より面白く感じる、というもの。
ただ、これは補足が必要な話だ。心理学者のフリッツ・ストラックは確かにこの「発見」をして発表した。この実験が行われたのが1988年。プライミング効果(先に与えられた情報が後の情報に影響を及ぼす)の代表的な例としてよく使われた。
これは事実だが続きがある。
フリッツ・ストラック本人の2017年の報告では、
「ペンを咥えて笑顔を作り漫画を読むと普通より面白く感じるかと思ったけどそうでもなかった」
というものだった。別の研究者による大規模な追試では効果が見られなかったと。
彼はこの「そうでもなかった」という発表でイグノーベル賞を受賞した。ちゃんとイグノーベル賞受賞式に出席したらしいよ。誠実だね。
・ただし、この顔面フィードバック仮説が否定されたわけではない。
結果、Strack et al. (1988)は再現が得られなかった。原論文では10点満点の面白さ評価で0.82点の評価差があったが、再現実験では0.03しか差がなかった[12]。
本研究の結果は、あくまでStrack et al. (1988)で再現性が得られなかったというものであり、表情フィードバック仮説が間違っているか正しいかを結論付けることはできない[13]。
・フリッツの実験は「面白さが増すかどうか」の実験だったわけだが、「反応速度」を見ている研究もある。
発話しないためにペンを歯だけで咥えるないし唇だけで咥えるよう教示された参加者が提示された文(快/不快感情に関する文) の感情価や有意味性の判断を行った。
その結果,ペンによって作られた表情と一致する感情 (歯だけの場合は笑顔から快感情,唇の場合は顰め面から不快感情) に一致する内容の文に対する判断時間が短いことが示された。
同様の結果は,筋収縮を抑制するA型ボツリヌス毒素を表情筋に注射された参加者でもみられた (Havas et al., 2010)。
笑顔以外にも不快そうな顔で不快なものへの反応が早まった点は注目したい。表情と一致した感情、要するにそれっぽい顔してるとそれっぽい感情への反応速度が上がる。
A型ボツリヌス毒素はかなり強い毒だが、相当薄めて顔面麻痺の治療や小ジワを取る美容整形などに使われたりもする。筋肉の収縮を抑制するため、表情によって発生するシワの発生を防ぐそうな。
論文内で明記されてなかったが、おそらく無表情に近くなるため(仏頂面に近い)不快刺激への反応が高まったのではなかろうか。
・他には「しかめっ面」は認知能力を20%上げる。
「表情」はかなり妥当な選択をしている。心理よりも正確だとすら思える。
参加者にフェルプスが試合で見せた「気難しい顔」を作ってもらい、その上でふたつの課題に挑戦してもらった。
3.8~5.5度の冷たい氷水に限界まで腕を入れておくというチャレンジと、わずか5分間で100ピースのパズルを完成させるというチャレンジだ。
その結果、氷水に腕を突っ込むチャレンジではそれほど違いはなかったが、パズルの速解きチャレンジでは大きな変化が生じたという。
気難しい顔を作って課題に挑んだグループは、そうでないグループよりも平均4.13ピース多くパズルを完成させていたのだ。また勝負顔グループは、大急ぎでパズルを完成させなければならないというストレスからの回復も早かった。
http://karapaia.com/archives/52285022.html?utm_source=twitter.com
いかにも勝負する時に適した状態になっている。実行のための認知能力は上がり、そのストレスに対しても耐性がある。
・顔だけではなく、姿勢やポーズでも似たような結果になる話はある。姿勢を正すと真面目になるのは抗重力筋の影響だとわかっているが、「パワフルなポーズ」で自信が湧くなんて話はこちらに近い。
[blogcard url=”https://embryo-nemo.com/1295/”]
・フリッツの例と反応速度の例を比べると、顔面はバイアスにはなっておらず、特定の感情に対応したものを意識した「構え」になっていると考えることができる。
感情の増幅ではなく、対応した感情にいち早く反応するというのは心理的な「構え」に近い。また一つの出来事の中のポジティブにもネガティブにも取れる要素に対し、どちらにいち早く反応するかは、そのままその者にとっての出来事の評価に大きく影響を与えるだろう。
・一般には何らかの刺激から感情が変化する過程は、刺激→情動的変化→身体的変化だと信じられている。例えば泣ける話を聞く→悲しい感情が沸く→涙が出るなど。
顔面フィードバック仮説は心理学者であるウィリアム・ジェームズとカール・ランゲが提唱した「刺激→身体的変化(今回で言う表情)→情動的変化」ではないかという前提から始まっている(ジェームズランゲ説)。
Havas et al. (2010)では感情に関する文を読むことで,それに対応する表情筋の筋電位が見られることも示されており,表情筋と言語処理に相互作用性があることが示唆されている。
私達が精神的な領域だと思っているこのような刺激から感情に至る道程は、「身体的」なものかもしれないという話。
精神制御を試みるより、身体的なこのような法則を意識したほうが手っ取り早いかもしれない。