明らかに2種類いる。
一人は「もうやめ時なのだろう」と思う。
一人は「そんなはずはない、何かがおかしい」と思う。
やめ時なのか
・楽しさの要素として、目新しさが挙げられる。これはもちろん慣れてきたらなくなってくるものだ。
その「好きなこと」に対して目新しさを求めて初めたのなら、飽きたからおしまい、は正しいだろう。
・心は一枚岩ではない。分裂した価値観と評価がないまぜになっていても珍しいことでもない。
楽しい気持ちと、つまらない気持ちと、両方が同時に存在することはあり得る。
この状態は「きっかけ待ち」になりやすい。待っているのが「やっぱり続けよう」なのか、「やっぱりやめよう」なのかはそれぞれだが。
何かがおかしいのか
・一応うつ病の可能性もある。それとは別に好きなことに対して期待が大きすぎるケースもある。
・好きなことがつまらなくなる理由として、うつ病の可能性はある。
むしろ嫌なことを嫌だめんどくさいと言いながらもやるのが通常で、「好きなことしかできない」ならとっくにやばい、なんて話もある。
そこまで大げさでもなくても、疲れているかもしれないし、ストレスが貯まりすぎているのかもしれない。可能性で言えば、ないことではない。
期待が大きすぎるケース
・特に「好きなこと」に対して、人はリフレッシュだとか、癒やされることだとか、元気をもらうだとか、そういったことを期待する場合が多い。
好きなことをしていてもこれらが叶わないと混乱する。おかしい。楽しめるはずなのに、と。
・特に休日、自由な時間を満喫していたいのに、仕事などが気になってしょうがないという人もいる。結構多い。
ただ人はあまり気持ちの切り替えが上手くないから、別に不思議でもないのだが。
この場合は仕事を嫌なことだと思いすぎていること、その癒やしとして好きなことに期待しすぎていること、両方の結果として「好きなことが楽しめない」とはなりがちだ。
・やめ時だと思う人と、おかしいと思う人、これら2つは個人差だろうか。価値観の違いに過ぎないだろうか。
それもあるだろうが、「好きなこと」に対して期待している事柄を自分で把握しているかどうかも大きいように思える。
ここで話は「やめ時」の方へとつながる。おかしいと思う人にしたって、期待している効果が前述のような「効能」だった場合、必ずしもその「好きなこと」で果たさなくてはならない理由はない。
散歩だろうが、運動だろうが、読書だろうが、雑談だろうが、なんでも良いわけだ。
つまり「手段にこだわっていないか」ということは、一度自問したほうが良いかもしれない。「それ」はもう、「そういうこと」には使えないほど慣れてしまったのかもしれない。
・単純に好きなことに対して以前ほど心が動かなくなったとしても、別にそれは自然なことでもある。
泣ける映画だのアニメだの見たところで、一度目ほどガチ泣きするわけでもないだろう。感情とは反応であり、先が読めるのなら大きな反応はしないからだ。
「予測できる」ということの影響は、思いの外大きい。
・私が知る限りのゲームに対しての最上級の褒め言葉は「記憶を消してもう一度やりたい」だ。感動や、好奇心を満たすことを望むなら、記憶は邪魔になる。
実際には記憶は都合よく消せはしない。この場合も新しいものを探したほうがいいのだろう。
・楽しくなくなっちゃったけどそれをやめる訳にはいかない人が、一番困るパターンだ。
今まで仕事が楽しかった、でも今はつまらない、だとか。練習とかでもありえるだろう。
これらは「好きなこと」は象徴に過ぎず、実際のつまらなくさせてる要素は別のことな可能性もある。
例えば人間関係。
例えばいつまで経っても上達した気がしない、または成果が出ない。
これらによりつまらなさを感じ、それに対して危機意識が芽生えたケース。
どちらが正しいのか
・まぁ可読性のためにわかりやすいタイトルつけなきゃならないんだけどさ。あんまり頭が良くない質問だよねこれ。前提となる好きなことと当人の目的と状態に依るだろと。
・確かにそれは「飽きた」のかもしれない。確かにそれは調子が悪かったり、期待が大きすぎたせいかもしれない。
これらの判断は情報処理の「方法」であり、処理であるからには適切でなくてはならない。これは対象や原因と噛み合っていなくてはならない。
何れにせよ、どの様な「目的」でその問題を見ているのか。そこだけは自分で把握したほうがいいだろう。適切でないなら、適切にすればいいだけだ。