世界観/人生観

公正世界仮説の種類

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  • 今の出来事は、過去の行いに拠るものとする信念
  • 最終的には不幸は報われ、帳尻が合うとする信念
  • 世界は不公正であるとの信念

・公正世界仮説という呼び方の方がポピュラーなのだが、論文では公正世界信念(BJW : Belief in Just World)と呼ばれている。

『世界は突然の不運に見舞われることのない公正で安全な場所であり、人はその人にふさわしいものを手にしている』との信念。

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・普段は気にならないが一度この世界観が崩れると、被害者バッシングや未来を信じられなくなり短絡的な選択をするなど、不条理な行動を取りやすい。

・Maes (1998)に依れば、公正世界信念には4種類あるとされる。

  • 一般的公正世界信念
  • 内在的公正世界信念
  • 究極的公正世界信念
  • 不公正世界信念

・全体の構成として、村山・三浦(2015) では、

  • 一般的公正世界信念と不公正世界信念がある
  • 一般的公正世界信念の下に内在的/究極的公正世界信念が存在する

との二重構造が示されている。

そんなわけで内在的、究極的、不公正世界信念について。

内在的公正世界信念

・ある出来事(特に負の出来事)が起こった原因を、過去の行い(負の投入)に拠るものと信じる傾向。

得られた結果には「正義」が内在すると考え、幼児期からの満足の遅延(我慢)に関する学習や報酬、罰の経験を通して形成・強化される。

・内在的公正世界信念が強い個人は、(加害者が存在しないまたは不明な事件において)被害者に出来事の原因を帰属する傾向にある。

要するに、「そんな目にあったのはお前が悪いからだ」としたがる。

「理不尽は存在しない」という世界観の危機であり、このために被害者に落ち度があるなどとつじつま合わせをして公正世界信念を維持しようとするからだ。

実際に被害者に落ち度があるかどうかは関係ない。初めからそう決めつけたがるという話。

・加害者が存在する場合、厳罰を求める傾向も強い。
この際は被害者を「人間ではない」としたがる(非人間化)。

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究極的公正世界信念

・究極というと紛らわしい。「最終的」と置き換えたほうが理解が早いだろう。
最終的には、不幸は報いられるという信念。

・不公正に依って受けた損失が、将来的に埋合されると信じている。

「被害の回復は来世でもかまわない」という宗教性の強い長期的視点を含む

・究極的公正世界信念は内在的なそれとは違い、信念維持のために事件の認知的再解釈(被害者が悪いと思いこむなど)を必要とせず、このような傾向とは関連しないとされている。
(これについては異論があるため後でちょっと書いておく)

・究極的公正世界信念が強いほど、被害者との心的距離を遠くする傾向にある。つまり「自分には関係ない」とする。

別に被害者に対して援助する義務も同情する義務も無いかもしれないが、少なくとも優しくはないだろう。

不公正世界信念

世界は不公正である。との信念。信念なのでやっぱり頭が硬い所はある。

公正世界信念と対極の位置にあるとする説もあるのだが、関連が見られない、または弱いとする研究もある。

・不公正を信じるなら公正世界信念によるヒステリーはないのか、と思うかもしれないが、加害者への厳罰を求めたり非人間化する傾向は高い。

まぁ世の中が理不尽で何があるのかわからないという世界観なら、やらかした奴を少しでも処分したい気持ちも人一倍強いと思われる。

・内的統制や主観的幸福感と有意な負の相関関係を示す。
要するに自分が物事の結果を変えられると思えないし、自分が幸せだとも思えない。

ただし、未来志向性との相関はない。つまり、後ろ向きとは限らない。

メモ

・何ていうかこう、全部いらねぇな。

・他にも白井(2010)では、

  • 公正世界観:因果は公正であり、現状は不公正でない
  • 不公正世界観:因果は公正ではなく、現状は不公正である
  • 可解的不公正世界観:因果は公正で、不公正な現状はいつか何らかの形で解かれ得る

なんて区別もある。

・究極的公正世界信念が
比較的無害であるかのように扱われてはいる。理由は内在的公正世界信念とは違い被害者批判や加害者の非人間化などの認知的再解釈を必要としないからだ。
「被害の回復は来世でも構わない」との宗教的視点を持つこともあるそうで。

ものすごく異論があるのだが、例えば発達障害や難病を抱えて生まれた子供やその親に対して「前世の行いが悪かったからだ」と宣う輩がいるらしい。
ついでに言えばインドで低カーストに生まれた者を指して「前世の行いが悪かったからだ」と宣う輩もいるらしい。

要するに、「来世に期待」も大分アレだが、今生の難儀が「前世のせい」とするロジックも究極的公正世界信念の持ち主は持っているのではないのか。

そう宣う輩は「理不尽な加害者」ではないのか。少なくとも人格が悪魔に支配されているか人としての能力が欠落しているのではないかと疑うことは非常に容易である。つまり非人間化を行いたいくらいには嫌悪感を感じる。

・総じて公正世界信念の持ち主自体が理不尽な行いをする部分が多い。その動機が「自分の世界観を守るため」という非常にエゴイスティックなものでもある。

この上で、別に公正は求めても良いとは思う。こいつらがうんこなのは「世界は既にそうであるはずだ」というタダだと思ってる甘えのせいであり、他力本願である。
このせいで真に不公正を生み出すものを見逃し、あまつさえ庇うことすらある。と言うか辻褄合わせをする(問題はないとする)せいで不公正そのものを見逃してる所ある。これらは共犯者として機能し得る。

公正という概念自体は、社会的なシステムの目標ですらあるだろう。つまり目指すものであり、逆説的に言えば今はそうじゃないのは現実なのではないのか。

・大体6歳くらいまでにこのイメージは固まるとする説があるが、6歳といえば人生脚本も同じだな。

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参考文献:

被害者批難と加害者の非人間化

複線径路・等至性モデルからみる加害者の非人間化プロセス : 「Demonize」と「Patientize」

傍観者によるネットいじめの被害者・加害者非難 : 公正世界信念の下位概念の影響に注目して

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