感情労働とは
感情の抑制、鈍麻、緊張、忍耐などが「絶対的に必要」である労働を意味する。
感情労働は頭脳労働に昔はカテゴライズされていたらしいが、今ではそれは通らないだろう。例えば介護士・看護師などは肉体労働兼頭脳労働兼感情労働ということになるし。
wiki引用。
感情労働に従事する者は、たとえ相手の一方的な誤解や失念、無知、無礼、怒りや気分、腹いせや悪意、嫌がらせによる理不尽かつ非常識、非礼な要求、主張であっても、自分の感情を押し殺し、決して表には出さず、常に礼儀正しく明朗快活にふるまい、相手の言い分をじっくり聴き、的確な対応、処理、サービスを提供し、相手に対策を助言しなければならない。
つまり相手に尊厳の無償の明け渡しを半ば強制される健全とは言いがたい精神的な主従関係や軽度の隷属関係の強要である。年功序列や接客業など、こちらの生活や人生が相手の判断で左右される職種において発生しやすい。
要は合法的(だと加害者側は思っている)パワハラの被害者になりやすい立場と言える。
これは職業に於いてとは限らない。年功序列が例に挙げられている時点でわかるだろうが、何らかの立場的な有利不利があり(つまり当人は我慢や同調を強いられる立場)、相手側がそれをある程度自覚して無遠慮になるか、素の性格がアレな場合には発生する。
感情労働に於いての人間が行っている応対術として表層演技、深層演技がある。
表層演技
愛想笑い、お世辞など。表層的、人工的なメタメッセージ。顔で笑って心で泣いてみたいな。
演技である自覚があるだけ自我を守っているとも言えるが。
明確に本音と建前を分けているこの状態は、だからこそストレスが少ないとも、だからこそその不一致への罪悪感が強いとも言われる。
深層演技
感情が生成される段階でコントロールされる。長期的に見れば、精神にはよろしくない。
習慣化されると休日でもオンオフが切り替えられなくなる。
例えば怒りをそのまま出してはいけないから、そこに楽しみを感じようとするなどが該当する。ラケット感情や絞首台の笑いに近いが、それよりも意図的。
本音を役割に無理矢理に一致させる。本音の方をコントロールすることによって。
心の商品化
wikiでは特に対人サービス業などでの上記「演技」が必須であることを「心の商品化」と呼んでいる。
アーリー・ラッセル・ホックシールドの表現かと思われる。
曰く、飛行機の乗客はチケットと同時に乗務員に怒りや不満をぶつける権利も買っている(つもりになっている)だとか。
それよりもっとひどいのはコールセンターに電話をかける客だとか。
問題は経営者側もまたそれを売ってるつもりでいることが挙げられる。
防御的動機
苦痛や煩わしさ回避のための防御的意図もあるとされる。
異常な客が雇い主にクレーム入れるぞと脅すだとか、そういった足元を見る行為を始め、「従わないともっと厄介なことになる」ことを示唆してのコントロールを仕掛けてくる相手の言いなりの状態。
外国のホテルで「お前なんか客じゃない。二度とくるな」と支配人が異常者を追い払った話が以前バズっていたが、それとは反対の「お客様を不快に思わせてはいけない」というサービス精神のほうが当然多いわけで。
まぁ客ならそうだろうね。客と足元見て傲慢になる異常者の見分けをつけるべきだと思うんだが。どうせ本性出すまで見分けなんぞつかないんだし、本性出したら叩き出すシステムくらい作ったらどうなのか。
メモ
反対側
字面だけだと「偉そうなバカ」のせいだけに見えるだろうが、そうじゃない。感情的な甘えをする人間もまた感情労働を強いて、感情疲労の原因になる。ケアテイカーはその被害者・後遺症だろう。
要は思い通りにするための「達成手段として」被害者ぶる・可哀想ぶることを選択する奴らにもまた注意が必要になる。この場合「共感」を使わせる、つまり深層演技を強いる点で、わかりやすいパワハラよりも人格的・振る舞い的な後遺症にはなりやすい。原因に気づけないこともあるだろう。
ついでに言うと、日本人の自己愛の病理は過敏型の方が多い。中でも「潜在的特権意識とそれによる傷つき」、つまり自分や自分の意見は注目を集めるべきで、他者はそれをもっと尊重するべきで、他人に相手にされないと凹むか怒るかという素質が高い。
加えて自己緩和不全=自分で自分の感情やストレスを調節・処理できないため、注目を集め、他人になんとかしてもらおうとする。
簡単に「それら全てを」埋める事ができる「同情を集める」という行為は選ばれやすい。つまり「可哀想」を悪用する奴、他人の同情や共感を不当に「搾取する」奴は多い。
多分この記事も今後「こんな事書かれてる!ひどい!!」とかそういう被害者ぶりに使われるのだろう。って書くと今度はコメントとかに「予防線を張ってる!」とかキチコメがくるんだぜ。ありがとう、この場でネタになったという意味では役に立ったよ。いつぞやのキチガイ。
共感の義務
周りは周りで「共感しないと冷酷だと思われる」みたいな義務感を背負ってることが多い。「共感しなければいけないという強迫観念を持つ者」は確実に多い。居るだろう。まるで身の潔白を証明するかのように過剰に賛同するのが。これについてはメサイアコンプレックスと距離を取れない被害者が、不快に感じるのは自分の性格が悪いのかと悩むのと同じ。
不当な感情労働を強いるというこの点において、威圧的な者と気軽に同情を買おうとする者が「同じである」ことに殆どが気づいていないから、むしろ今現在後者が調子こいてるよ。実際入れ食い状態で同情や共感が集まってるね。こいつらのせいで、被害者が加害者にされることもあるし、本当に解決されるべき苦しんでいる人が勇気を出して送ったメッセージには大衆は目が向かない。
大衆の注目を集めるためには「わかりやすさ」と「インパクト」が必要だ。この2つにより広まって、大騒ぎになる。マスコミがよくやってるだろう。イエロージャーナリズム。一方本当に深刻なものは被害者が状況をよくわかっていなかったり、うまく伝えることができなかったり、あるいは加害者に隠されたり、そういった単純ではない「わかりにくさ」がある。その上で苦しくて、なんとかしなければならないと思い、わかりにくいそのままでの小さな声であることが多い。
「同情・共感」というリソースは、注目を浴びたいだけの人間にはくれてやるわけにはいかないだろう。むしろ盗まれている可能性すらある。「いかにも」な話で。
他人と関わる際、相手に「重い」という感覚を感じたら、注意を払った方が良いだろう。したくてやってる共感ならご自由に。「やらされた」のなら目を覚ませばいい。
共感を求める者は、不当な搾取者だろうと本当に問題を抱えている者であろうと「自分ひとりでは辛い」点には変わらない。問題はどちらかと言うと、共感する側になる。不当な感情搾取が空振りに終われば、ただそれだけで終わるのだから。だから本質的な問題は甘える側ではなく、甘やかす側。しかもそれが強迫観念と来た。
弱者を騙るコントロール
https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/51/1/51_35/_article/-char/ja/
上記リンク先は感情労働について、再度フラットに見てみようとする学術論文だが、介護職に於いてのベテランと候補生との意識の違いの描写がある。候補生たちは「何でも受け入れ、尽くさなければならない」と思い込み、それを果たそうと意気込んでいるが、ベテランたちは「それは現実的ではない」と。
読んでみると、表層演技はむしろベテランが長け、深層演技は候補生たちが「やらなきゃいけないと思っている」ような印象を受ける。
また、利用者が「私は年寄りだから」、「こんな年寄りに」と弱音や泣き言を利用して職員を動かそうとする点についてインタビューを書き起こしたものが載っている。
「きれいな世界じゃないですよ。きれいじゃないですね」
「優しい人ばかりじゃないし、あの中は社会の縮図だし」
「意外にしたたかというか、すげぇ、こっちをコントロールしようとしやがるんですね。自分のいいように職員を動かそうとするんですよ」
私がいじったんじゃなく、この口調。言っちゃなんだが介護が必要な老人がこの手を使うという時点(尚更か?)で、下位承認欲求つまり「同情を買う」ことが本能レベルであり、それを利用しての他者コントロールもまた「身についている」との仮説も立てられるだろう。老獪なのかもしれんが。
恥も外聞もなくこの「コントロール」に執着するのはDV加害者だろう。威圧的な方面は言うまでもないだろうが、離婚だの裁判だのとの話になったら途端に被害者ぶるだとか、そんな話を「予防」でもしたいのか暴れた後では優しいだとかね。
自己愛もそうだが、というか自己愛でDV加害者もそこそこいると思うが、よく聞くさっきまで自分が何やってたか覚えてないんじゃないかってレベルの豹変ぶりは相手をコントロールしていることしか意識しておらず、本当に初めから覚えていないんじゃないだろうか。
ドレスコード
犬の躾に良くないのは、過保護にして「お犬様」にすること。躾で邪魔なのは何も知らない外野の「そんなことするのは可哀想」っていうヤジだって話がある。
日本は特にこうらしいが、日本人にとって共感性を見せることは社会的一員である証明にでもなってるんじゃないのか。それがご覧の通りのやりすぎで過保護過干渉なわけで、国民レベルのポライトネスは過剰傾向になるって話と一致するか。
構って貰いたくて嘘泣きする奴と、泣くの我慢して耐えてる奴と、話を聞きたいのはどちらか。
アダルトチルドレンやバーンアウト。特にアダルトチルドレンの深層演技。強迫性。特にケアテイカー=プラケーター・イネイブラー。いや、弱者を騙る者が居るなら煽てられて「ヒーロー」もあり得るのか。
ポライトネス。特に自分のネガティブフェイスの把握、相手のポジティブフェイスの把握は精神を守ることに向いているだろう。
心の商品化っていうか、感情の義務化が起きてないか。世の中に。感情を出す出さないではなく、「これに対しては心からこう思わないといけない」という深層演技を強制するような義務が。私達は、感情的な意味での自由を持っているのか?
■クレジット
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9F%E6%83%85%E5%8A%B4%E5%83%8D
https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/51/1/51_35/_article/-char/ja/