・「もっと自分を褒めましょう^^」みたいな話はあるが、思うところもある。
自画自賛が必要な人
・言葉というものは誰かに向けられたものであり、それが自分じゃない限りは真に受ける必要はないわけだ。というか、自分向けじゃない言葉を真に受けると大体ろくなことにならない。
「自分を褒める事も必要だ」というのは、自分に厳しい人向けの話だろう。できたところよりも「できてないところ」ばかりが目に付き、意識的に良いところに目を向けないと自分を肯定することができない状態。あるいは、やろうと思っても無理があるかもしれない。
つまりは完璧主義とか呼ばれる理想が高すぎるタイプなど。
理想が高いというよりも何もかもに「理想」を設定していて、息を抜く暇が存在していない人も見受けられる。例えば箸の持ち方だろうが靴の履き方だろうが、何から何まで既定値や理想像があり、それが高く、自然体ではそれに至れない人。「気にせずにいられる」という物事がない人。
これら自体の良し悪しは今回は置いておいて。その様な「できてない所」ばかりが目につくようなら、モチベ回復のためにも自画自賛は必要かもしれない。
自画自賛のリスク
・いくつかの研究で、自己評価(自己愛や自尊心)が高すぎると性格がクズくなる傾向があることは挙げられている。周りからも嫌われる傾向がある。逆にこの辺りを気にしすぎると、自信を持つことに抵抗が湧くかも知れないな。
・日本人は割と求道者気質で、真面目に何かを取り組んで達成/成功したがる所がある。だからバカルールに対して不満を持つよりも適応すること考えちゃったりする脆弱性もあるけどそれはおいといて。
基本的に目標を持つということは、現状では足りないと認識することから始まる。つまり「満足」や「達成感」を終着点に置き、それを得るのが1サイクルとなる。
この場合、自画自賛は「偽のゴール」となる。これでは満足できないと知っているので、自画自賛のリスク以前に自画自賛が「できない」。サイクルが終わってしまう。葛飾北斎が晩年に、ネコ描けないって泣いたって話もこの辺りだろう。まぁまぁじゃないかと思うわけには行かない努力スタイルの人。
これの良し悪しは、なんとも言えないな。反対に、目標を人に言っただけで達成した気分になって勉強しなくなるタイプの人間もいるらしいから。こちらのタイプは、達成のためには自画自賛するわけには行かない人、となるだろう。「自画自賛するとやる気が無くなってしまうタイプ」がいる。原動力として目標に対しての「飢え」が必要なタイプ。
どの道、達成や満足をゴールとして、人は自分のモチベーションをコントロールしている。それが「自画自賛」と相性が悪いということはあり得る。
そもそも褒めることが必要なのか
・ぶっちゃけてしまえば、意識して自分を褒めることが必要な人とは、自己肯定感がないのではなくて、自己否定感がやたらと強いと言ったほうが正確な感じの人だ。
これを性格や人格として扱うのも正しくなくて、厳密にはそういった精神状態や思考のクセと言ったところだろうか。それを認知の歪みと呼ぶこともあるだろうが。
・上記の通り自画自賛にリスクもあるし、向いてない人もいる。正直な所、自己肯定感そのものは要らないと思う。ただ、自己否定感は大抵の場合ロクでもないのでもっと要らない。自己否定感のメタとして自己肯定感があるのなら、予防接種的な意味では適量に必要だと言える。
・「自分を褒める」ことの最大の難所は、つまらないことで褒めたらみみっちいし、べた褒めするには実力が足りない点だろう。
そこもどうでも良いと思う。ぶっちゃけ褒める所は見つからなくてもいい。重要なのは「褒めるつもりで自分を見る」という点ではないかと考える。「探す」こと。
逆のことを同時にはできない。探してる間だけは自己否定はできない(むしろ肯定できそうなものを見つけた瞬間に否定感が湧く感じだろう)。また、その様な試みは自身の長所に意図せずとも気づける目を養うだろう。それは自己否定感への免疫となり得る。