「キャラ」
・言うまでもなくキャラクターの略語。そしてある意味での「個性」を指す。「キャラが立っている」みたいな言い方をするね。
この「表面上の個性」としてのキャラは、コミュニケーションを目的として各々演じるとされる。
・心理学用語というわけではないのだが、研究対象とはされている。論文とかもあるし、考察されたりもする。
・コミュニケーションのために自然に割り当てられる、或いは自然に確立されるものとされ、時には何かのキッカケで(英雄的行動、或いは失態)一気に確定したりもする。
・「自分がない」方がキャラをよく演じられるとされることがある。「自分」が確立されていないため、演技に抵抗がないとのこと。
・一応社会的な要素(上下関係)はキャラには含まれないとされることもあるが、いじめる/いじめられることのカムフラージュとしても機能するとされる。ターゲットを「いじられキャラ」とか呼んで深刻なイメージを抱かせないなど。
・キャラである利点は、複数あるだろう。
1:その人物を理解する必要がない事
2:パターン化された対応で済むこと
3:キャラに当てはまらない要素はイレギュラーとして割り切れること
さて、人の心は複雑怪奇。当人にしたって全部は分からない。初対面の人間相手では、誰だって緊張するものだ。
そしてある程度の付き合い方、リアクションの予測、適切な距離感を想定できた時初めて安心する。まぁこんな硬い考え方は実際はしないが、実質的にはやっている。
「キャラ」を演じ、そして「キャラ」として扱うというのは、上記のめんどくさいのを全部省略できる。
「へぇ、そういうキャラなんだ。じゃあこの接し方な」でおしまい。
ああ、なんて便利。画期的だね!
・ただまぁ、望んだキャラに成れるとは限らない。転校生デビューとか二学期デビューとかの失敗だとか。
結局自己申告だけでは成り立たず、周囲が「なるほどたしかにそれっぽい」と思わない限りは確立しないようだ。
性格の「規格」、或いは義務自己
・「義務自己」という概念がある。「こうでなくてはならない」という一種の義務のような理想像。
これは体現し続けなければならないかのような一種の強迫性を持つことがある。
今回で言えば、「キャラ」はほぼ義務自己として機能している。
それを強く気にしすぎると、強迫観念もあり得るだろう。
そう振る舞わなければならない、
そういうリアクションをしなければならない、
こういう趣味でなくてはならない、
こういう休日の過ごし方でなくてはならない、
「このキャラ」はこうでなくてはならない、と。
まぁ馴染みやすい扱いやすいってのは大きな利点だろう。ただ、それを完璧にしようとすると、当然疲れる。自由もない。時間も、心も。
・厄介なのは、キャラは一種のドレスコードのような、コミュニティに参加する規格にもなる。規格というほど厳格じゃないが推奨(ほぼ必須)みたいな。なにせわかりやすいから、扱いやすい。
進学校だったらガリ勉は馴染みやすかろうし、オタサーだったらゴスロリは馴染みやすかろうよ。比較的。
・大抵の人間が、類型論的な性格分類に一定の関心をもつのもこのためではないだろうか。
認知バイアス「根本的な帰属の誤り」
・認知バイアスは、ざっくり言えば認知が偏っていること。当人が何かを知覚したと認識した時点で、既にそれがバイアス(偏り)がかかっていること。
・「根本的な帰属の誤り」とは、人間は他人の言動をその種類によって決定されていると見る傾向を指す。
男だから、女だから、日本人だから、若者だから、年寄りだから、そういう考え/そういう行動なんだろう、という一種の決めつけ。
決めつけだが、当人からしてみれば「理解・納得」に近い感覚を持つ。
ここまでガバいカテゴリじゃなくても、「そういうキャラだから」というのは、非常にこれを助長させる。
キャラとして扱う、キャラとして振る舞うのはある意味「バイアスのほうが正しい」となる。結果本質・気質・本来の意味での「個性」は問われない。
皮肉なことに、一番キャラを演じる機会が多いだろう「学生」は、同時に一番アイデンティティの確立を求め、苦しむ年代でもある。
どう足掻いても「キャラ」として扱われることそのものに不満を感じるということはあるだろう。
むしろこの認知バイアスを「採用」した結果生まれたのが「キャラ」による社会的コミュニケーション方法なのかもしれない。
友達付き合いが疲れることについて
・いくつか。
1:自分のキャラに疲れた(短期)
2:自分のキャラに嫌気が差してきた
3:そのキャラとしてしか自分が求められていないことを思い知らされるため
4:そのキャラとして対応してしまう自分が嫌い
1は感情労働、感情疲労の様な状態。バーンアウト/燃え尽き症候群に近い。サービス業、特に介護サービスで新人がなりやすい。
「心から」の感情を持とうと(自分の感情を操作しようと)努め、疲れ果てた結果。
2は根本的に「こんなキャラ=扱い/振る舞いはうんざりだ」という状態。
3は「素の自分」への評価ではないことに対しての不安。これは課題が多い。
まずキャラによるコミュニケーション自体が普及しているため、このゲームから降りることにはリスクが有る。
次に代わりとなる本来の個性・本質は見つからない/決められない年代がこれを気にすることが多い点。よしんば「本当の自分」を持っていたとしても、それをオープンにするのに適切な時と場所と相手じゃないのなら、その時と場所と相手に対しては「振る舞いの方針」は失う。
つまりはゲームから降りるのではなくキャラに変わるものが必要なのだが、それがない状態が多い。
最初に言ったが、一種のドレスコードだという点は軽視しないほうがいいだろう。
行き着く果てとして唐突なキャラ変更、或いは人間関係全部めんどくせぇというどちらも恐らく見たことがあるような、そんな状態になる可能性。
「演技」そのものは誰でも行うことは昔から示唆されている。ユングのペルソナ然り。少しずつ「素」を出していくくらいが現実的だろうか。「意外な一面」として許容される程度の小出しに。
4も「素」の状態をいくらか意識して出したほうがいいかもね。ユングのペルソナに於いては「仮面が外れない」症状が示唆されている。要はサラリーマンが職場での「キャラ」を家庭でも演じてしまうなど。
ともすれば「自分の素」を見失うということは、あるのかも知れない。
こう言った心理的機能のオンオフの問題は結構あるように思える。