- 分かりやすさの価値についてだよ。分かりやすさの危険性もあるけど今回は扱わないよ。
- 「難しいほど賢い」って思ってる人もいるけどそうとも限らないよ。
- 分かりやすいと正確さが失われると思ってる人もいるけどそうとも限らないよ。
・ただ単に私が小さい頃から「教えることもまた勉強」って教わってきたため、よく分かるだけかも知れんが。
教える側にメリットが有る。これを利用した学習法もある。
・「難しいと高尚」かつそれを使えば「自分の価値も高まった」と考えるのはいる。これ系はわかりやすいものは単純、初心者向けは稚拙、なんてイメージを持っている。
はっきり言っちゃうと、分かりやすくできない=分かってない可能性もそこそこある。
・わかりやすさは、正確さとトレードオフと考えられる場合がある。「わかったつもりにさせる説明」なんてのがそうだ(これをわかりやすさを言い訳にした甘えだとする人もいる)。簡略化は良いが、矮小にしてしまうリスクが確かにある。
・今回の「わかりやすさ」は伝達の難易度がメインの話で、情報の質が損なわれないことを前提とする。
ユダヤのわかりやすさへのこだわり
- アインシュタインやファインマンはわかりやすさにこだわっていたフシがある。
- 子供や生徒に説明することができるか。
- わかりやすく教えようと試みれば「わかったつもり」を潰すことができる。
・アインシュタイン曰く、『6歳の子供に説明できなければ、理解したとは言えない』。
彼が相対性を説明した言葉が以下。
「もし君が、きれいな女の子と一時間並んで坐っていたとすれば、その一時間は一分のように思えるでしょう。しかし、もし熱いストーブのそばに一分間坐っていたら、その一分間は一時間のように感じるでしょう。これが相対性です。」
体感時間とも解釈できてしまう。「相対性」の説明ならこれで十分だが、同じ内容が「相対性理論の説明」とされていたりもする。この場合は質が損なわれた説明ということになる。どっちだろうね。
・物理学者のリチャード・ファインマンが、「より良い理解」のために使っていた方法としてファインマン・テクニックがある。今回の話にだいぶ適正が高い。
まず学習したい概念を選ぶ。
次にその概念を人に教えるつもりで書き出す。
この時、想定する対象は生徒や子供とする。専門用語や複雑な言い方は自分の理解度を誤魔化すとし、それが通じない相手を想定している。
書き出す内容はわかりやすい言葉を使う。これができるかどうかで自分の理解度が分かる。
まぁぶっちゃけて、知らない言葉でも知ったかぶって語るなんてのはやろうとすればできてしまう。そういった逃げ道を潰して説明できるかどうか。
これにより自分の不足分を把握し、それを再学習し、改めてノートに書き込む。
こうして書き上がった物は再びチェックする。説明が複雑だったり不明瞭だった場合、それは「理解しきっていない」と見なし、更に深める。
ファインマンはNASAのチャレンジャー事故の調査委員になったことがある。この時原因を突き止め、一般公開の事情聴取の席上で誰にでも分かる形でミニ実験を行いそれを説明している。
また自分が書いたメモの集まりを指して「これは思考そのものだ」と言ったりと、形にすることに拘っていたように見える。
・この2人の共通点は、ユダヤ家庭の生まれであったこと。アインシュタインの家は敬虔な信者ではなく、ファインマン本人も宗教嫌いだが。
ユダヤは教育熱心で知られ(カネは奪われるが知識は奪われない)、家庭教育を重視する。
少なくとも彼らの優秀さの理由の一つは遺伝ではなく、共通する「子供/弟子に説明できるか(専門用語や難しい言い回しをできずに表現できるか)」というこだわりのおかげだと思われる(専門用語は同レベル相手ならやり取りの簡略化となるのも間違いはないが)。
同じく子供相手にニュースを説明してた池上彰にしたって、「わかりやすい」との評価をされてたわけだし。
伝わりやすさが高い
- 知識全体の内、言葉に(形に)されていない(できない)部分
- 可能なものを言語化する=伝えられるようになる
- 良くも悪くも広め安くなるので注意が必要
・「知識全体の内、言葉に(形に)されていない(できない)部分」のことを暗黙知と呼ぶ。
別名経験知とも呼ばれ、その名の通り経験を通して培われてきた個人的な感覚的ノウハウ、カンやコツと呼ばれるもの。主に技術面の話だが、勉強においてもその概念のイメージがはっきりと形になっているのとないのとじゃ習得率やアウトプットのしやすさに差が出る。伝達不可能、あるいは困難。
・対義語は形式知であり、これは言葉や文字にされたもの。伝達可能。「わかりやすさ」とは、暗黙知を可能な限り形式知に変換したものとも言える。
暗黙知は教えるのが難しいか無理だが、形式知は伝えることが可能になる。
ただ全てが形式知にできるかというと不可能で、ここが「わかりやすい説明聞いてわかったつもりになる人」を見て「詳しい人が不安を感じる」理由だったりする。要するに「全部わかったつもり」になられても困る。
あくまでも概要、サマリーを知ったくらいのつもりで自重した方が良いだろう。まぁ新しいことを知ると人ははしゃぐからね。無理かもね。
・他にも暗黙知を伝える方法はある。例えば、それこそ「例えば」で始まる例え話がある。これは他の経験(他の暗黙知)を流用させることで対象の理解を促す。つまり相手の頭の中にあるものを使って理解させる。
だから例え話は相手が経験しているだろう身近なものじゃないと効果が薄い。玄関で靴を脱ぐのと同じくらい当たり前にやれとか、風呂の温度と同じで高いにも低いにも限度があるだろボケとかなんかそんな感じで。
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処理流暢性を高める 認知的負荷を減らす
- 分かりやすさ、やりやすさを難しい言葉で流暢性と呼ぶよ
- 分かりづらさ、やりづらさは難しい言葉で認知負荷と呼ぶことがあるよ
- 同じ内容ならわかりやすい方が良いよね
・私がたまにこんな口調で3行でサマリー書いてるのは個人的修練であって、別に悪ふざけでもなかったりする。ギャップがえげつないが。
・目や耳から入ってきた情報処理の流暢性(分かりやすさ/やりやすさ)が高いと、人は快適だったり美しさを感じる。
・ゲシュタルト心理学では人が何かを見る時、一つ一つを認識しているのではなく「1グループ」としてまとめてみるとされる。
例えばペン立てに入っているペンは「ペンが入ったペン立て(1グループ)」として先ず見られ、それが何本かボールペンかシャーペンかなんて通常気にしないだろう。この状態だと人は「見やすさ=分かりやすさ」を感じる。細部を見ていないが、見る必要もないと分かる快適さ。
全部を机にぶちまけると、今度は乱雑さを感じる。グループではなくなったから、1本1本のペンが最小単位になる。一つ一つを見ざるを得ない。このため全部を認知することに負荷がかかる(認知負荷)。量は同じなのにだ。散らかった机だと集中できないってのはこれが原因として大きい。
・情報も同じく、量が同じでも片付いてるか散らかってるかで頭への入りやすさ(=分かりやすさ)が違う。
このため「分かりやすさのためには正確さが犠牲になる」というのはちょっと話が飛躍している。削る以外にわかりやすくする方法はある。整理。
・分かりやすくないとそもそも伝わらないリスクがある。認知負荷が高い/流暢性が低いため相手が受け取れない、または拒絶されるリスク。
アインシュタインの6歳の子供に分かるように、ファインマンの生徒に分かるようにってのと繋がる話だが、可読性(文章の読解力)がアメリカの平均的な成人で中学二年レベルだとされている。教育レベルと読解力は比例しない。
今日、アメリカでのベストセラー作家のほとんどが、中学1年レベルに合わせて文章を書いている。例えば、ジョン・グリシャム、ダン・ブラウンなどである。
専門家は、法律や医療に関する情報を中学1年レベルに合わせて書くことを推奨している。医療や安全に関する情報を小学5年レベルで書くことを求めている法律も多い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/可読性
(この上でサピアウォーフ仮説、つまり言語が思考の限界を作るとするならば、可読性のレベル≒思考のレベルと考えられる。話者も受話者も)
日本でも物書き界隈だと「中学生に分かる文章で」なんてのが推奨されてるのも見たことがある。
漢字を適度に開く、例えば「憂鬱」という文字を「憂うつ」と一部ひらがなにするみたいなのも読みやすくするテクなんてされている。
伝えたい側、分かってもらわなきゃ困る側としては、可読性を上げるのは重要なわけだ。それは分かろうとしている者への助けにもなる。
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