・単に「やめたい」と思って止めることとは別物とする。
諦めとは
・仕方ないと思い切ること、とされる。断念とも。
もう希望や見込みがないと思ってやめることともされる。
・一般的にはギブアップ、放棄など、「目的未達成で降りること」を指す。一時的な撤退ではなく、根本的に手を引くこと。
どちらかと言えば、一般的には心理ではなくて行動を指している。いかなる理由であろうと途中で辞めたのなら「諦めた」と言われる余地はある。
諦めが早い、良い、悪い。
諦めが早い
・すぐに「もうだめだ」ってなるヘタレという意味もあるが、見切りが早い = 切り替えが早いという良評価なこともある。
諦めが良い
・これは通常良い意味で使われる。未練がましくなく、さっぱりと降りることができる。潔さ、執着のなさなどを指す。
諦めが悪い
・まぁ、粘着質な様を指す。しぶとい。しつこい。
これも良し悪しであり、根性がある様を指す使われ方もする。
一方で、悪あがきや往生際が悪いなど、「現実を受け入れられない」様を指すことも多い。
本来、諦めとは悪い意味ではない
・日本語の「諦」の字にはあきらめる、望みを捨てる、断念するという意味が確かにある。
一方で、「あきらかにする」「つまびらかにする」という意味を持つ。「諦視」はじっと見つめること、見極めることを指す。
さらに、まこと、真理という意味すら持つ。本質を捉えた極地である。「真諦」とは仏教での究極的な真理だとされる。
・「諦観」と言えば、一般には希望をなくして棒立ちになっているようなイメージがある。これも間違いではない。
しかしもう一つ、「本質をはっきりと見極めること」という諦視と同じ意味を持つ。
・「諦」がそもそも、サンスクリット語のサティヤ(悟り)の訳語だとする話もある。
中国語の「谛」の意味も
1:つまびらかに
2:道理や物事の意義
となっており、日本語で扱われる「途中でやめる」的なニュアンスがない。
「諦める」は「明らめる」
・本来の諦めの意味は、「悟り」に近い。物事を明らかにすること。一般的な意味の諦めも、自分に無理だと当人にとって「明らかに」なってからの話だろう。
・この「明らか」という言葉は、諦めと同じ語源から来ている言葉だとされることもある。「諦める」は「明らめる」だなんて話もある。
四諦
・同じく仏教つながりでは「四諦(したい)」と呼ばれる概念がある。諦の字が使われているが、内容的にはやはり「悟り」に近い。
・苦諦(くたい)。この世は一切が苦である真実。
・集諦(じったい)。苦しみの原因は飽きることなく求める煩悩や妄執である真実。
・滅諦(めったい)。執着を立ち、苦を滅することが悟りの世界であるという真実。「欲がないことが理想の境地である」、という真理だともされる。
・道諦(どうたい)。悟りに導く実践という真実。八正道とやらを守れとかなんとか。
これ、問題の認識、問題の分析、対処法の想定、対処法の実践、と見るとなんぞビジネスの話っぽくなって面白いな。面白いだけだね。
思うに「諦める」という言葉、「現実を受け入れる」というようなニュアンスもあるのかもな。
諦めることが悪いこととされがちなのは
・「諦め」自体を悪いことだと認識しているのも、一種の根性論だろう。注いだ労力分の見返りを信じているわけだから、公正世界誤謬だとも言える。
やり始めたらやり遂げたくなる一貫性の原理なんてのもあったな。これは他人を見てても「やり遂げるべきだ」って形で出ることはある。何れにせよ、自他共対して「途中で降りることを許さない」という心理は働く余地がある。
・真面目な話、目標達成において「できることだけやってればいい」というのは少ない。大抵は「今以上の何か」が目標であり、背伸びをする必要がある。
これは未知の領域であり、それへの挑戦である。できるかどうか、やり遂げられるかどうかはわからない。当然諦めることになる余地は増える。
片や一般的に「諦める」という言葉の扱いとは、「できると思ったけどそうじゃなかったからやめた奴」であり、まぁなんだ、「雑魚が正体表したね」みたいな感じだ。
ワナビーとかいうのな。だがワナビーってだけで悪いのか?
メモ
・案外、自分でヘタレの根性なしだと思っている者には知恵があるのかも知れん。
・「諦め」の前に何らかの「拘り」がある。それは目標だったり、手順だったり様々だ。何を諦めるかは気にしたほうが良いだろう。
手順に拘り、その手順では無理だと悟り、目標を諦める、というのはちとおかしくないか。
この場合諦めるべきは手順に拘ることだろう。目標を諦めることはないとなる。
部分的に諦めることと、全体的に諦めないことは両立し得る。
・陳腐だが、諦めることの良し悪しは時と場合による。一般的に使われる諦めが早い、良い、悪いの時点で是非が分かれるのは、文脈次第だからだろう。
・全くの「間違った諦め」があり得るか、といえばある。諦めとは一つの結論であり、そこに至る過程でミスが有るならそのまま結論もポンコツになる。
例えば障害の過大評価により諦めること、希望の捏造により諦めないこと、これらはよろしくないと思う。