「同じ景色、同じ道が辛い人」に引き続き。
件の人からはもうメール来たんだが、私が満足していない(しつこい)。私の方に不完全燃焼感があったんよ。
前回は「要因」とかメカニズムに拘りすぎて、心理というもっと広い範囲に触っていなかった。細かすぎたね。
景色が何らかのシンボルである可能性
件のページのリアクションの一つにこのようなものがあった。そのまま引用していいかどうかわからんから概要だけ並べるが、
- 実家にいたときそうだった。
- 実家周辺の景色を見ると苦しさを感じた。
- 実家から出たら同じ景色を見ても苦しさはなくなった。
当人は人生に対する焦燥感だったのでは、としている。
このような場合に人が見る「景色」とは、それそのものではなく、それを通じてイメージする「何か」であることもある。
つまり景色は「シンボル」の役割を果たす。
シンボルというのはその物事の象徴でも有るが、イメージを投影するスクリーンでも有る。つまり、何らかのイメージを想起させる上で、そのイメージの投影先ともなる(シンボル自体がそのイメージの持ち主に感じる)。
例えばアメリカの国旗、中国の国旗をそれぞれ見た時、私達の脳裡に浮かぶのは、その「国」への、「イメージ・記憶・連想」に近い。
物質的に考えれば「国旗」への「デザインの感想」が思い浮かぶ場面だが、実際には知識や経験があればあるほどそうはならない。
あるいは、どれだけ顔が良くても人間性が絶望的にブスな者がいたとして、其奴の顔面を見て好ましいとは思わず、吐き気がする方が自然なわけだ。逆もまた然り。物理的実体に対しての評価ではなく、観測者のイメージ・記憶・連想を呼び起こす。
この場合は其奴の顔面は、物理的には個体識別以上の価値を持たず、それ以外はシンボルとして「内面のおぞましさを呼び起こし、それを映し出す」という機能を果たす。
このようにシンボルは、観測者の「何か」を呼び起こし、投影するスクリーンとして機能している。
同じ景色、同じ場所が辛いことについて
件のメールから見ると、買い物とか日常的な場面でもそうだというので、「日常生活」自体がその対象になっているように思える。
自身の行動範囲である=その中を繰り返し同じ動きをすることになる自身の生活に対して、辛さを感じている可能性は高い。
それに対しての、不快感・不安感を感じる、というのは、「(自分が)このままではいたくない」という感情だとも考えられる。
「適応」への拒絶
つまり「今の環境に慣れてしまうとマズイ」と危機感を感じている可能性。なので不快感・不安感にある種の「正しさ」も感じているかもしれない。
理由はまぁ、前述の通りの人生に対しての焦燥はあり得るだろう。
自分は何者かになれるはずだ、
あるいはそうでなくてはならない、
もしくは自分で思う「あるべき未来の姿」と自身の現実とがつながっている気がしない(これは繋がってるのにそう感じることもあるが)。
総じて「今のままではいけない」「何かアクションを起こさなくてはならない」というような感情。
裏を返せば「繰り返しの毎日(景色がシンボルとなる)」に対してそもそも「抜け出したい」という思いがあり、この上で「停滞感」を感じている可能性。
で、「抜け出したい」+「停滞感」=焦燥:不安感・不快感みたいな。
ここから考えると、向上心が高いのかもしれない。ただ、その理想像は漠然としている可能性もある。
人生みたいな大きな目標を持つ場合にたまにあるのが、「焦燥感があるが、何やったら良いかわからない」あるいは「何やっても進んだ気がしなくてなおさら焦る」という状態だ。
目標を具体的なアクションに落とし込む、それらが確実に目標に近づく行為であるという認識が持てないとこうなりやすい。まぁ目標次第では確信はどこまでも持てないまま進むしかなかったりもするんだけど。
どこを目指せば良いのか、何が歩を進める事になるのか、これら自分にしか決められないことを気にしたほうが良いかもしれない。