なんというか、総じて「試行錯誤が元々必要だったのに、ただひたすら反復練習ばっかしてたらそりゃ行き詰まるだろ」という結論になる。
後述するが「ただの反復」だと、30年それやってたベテランが2~3年のぽっと出に負ける。
これは、主に既存の能力を伸ばすことについての話となる。「上達の道」といったところか。
「努力しても報われない」ことに対しての一つの解説となりえる。
割と自己志向型の完璧主義と相性が良さそうである(逆に社会規定型の完璧主義は恐らく成長率が低いと考えられる。限界的練習が「できない理由」が大きい)。
注意点として、限界的練習は「やり方がはっきりと決まっている分野」に限られている。ビジネスを始めとした即応性が求められる分野や、まだ方法論が確立されていない草創期の分野では、このままで当てはめるのは難しい。
また、個人の能力の話である。システム的な解決が為されるべき案件では、責任者が仕事しろ。
限界的練習の提唱者のアンダース・エリクソン本人はこう述べている。
『あなたは山を登ろうとしている。頂上はあまりにも遠い。・・・もう一つの方法は最適な道を知っている山岳ガイドに頼ることだ。その最善の道が限界的練習である。』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jseeja/2017/0/2017_130/_pdf/-char/ja
引用元の論文によれば、「限界的練習の教材」としての要点は以下の5つ。
- 第一人者の心的イメージを手本にした教材設計
- 課題は自分の能力を少し超える負荷がかかる難易度
- 短期間の指導後に課題が正しく実行できる教材設計
- 即時フィードバックと自己評価ができる教材設計
- 個別訓練環境(Practice Alone)
これはそのまま、各々が意識するべき点となる。
限界的練習の例
トップのピアニストの練習の分析の話がある。彼らは「ミスに対しての姿勢」が違う。
ミスをするたびに間違った場所の正確な位置と原因を特定し、その原因を修正するように気を配っていた
曲を弾くスピードを数パターンに変化させ、難しいパートを正しく演奏するためにテンポを落としたり、自分の演奏レベルを試すためにスピードを上げたりしていた
ミスが修正できたことを確かめるために、演奏が安定するまで間違った部分の練習を繰り返していた
https://yuchrszk.blogspot.com/2021/03/3_22.html
前述の限界的練習の教材の要点に当てはめれば、
1つ目が即時フィードバックと自己評価になる。ミス=「課題の発見」と捉えている。短時間の指導後に(この場合セルフだが)課題が正しく実行できる設計、というのにも当てはまる。
2つ目の数々の変化を混ぜた練習は、「自分の能力を少し超える負荷がかかる難易度」に当たる。
3つ目でようやく、反復練習に入っている。
一方なんかパッとしない結果になる練習方法が、ミスが起きてもとりあえず最後までやってみる、何も考えずにひたすら繰り返す、というパターンだったという。つまり「いきなり反復練習」はパッとしない結果になる。
エリクソンについて
「プロになるには1万時間の練習が必要だ」説の元となる研究をした人。
なおこの説自体は「音楽家の卵の中で上手い方なのが1万時間練習してたってだけで、それ以上でも以下でもない」とエリクソン当人が言っているようだ。伝言ゲームで話が膨れ上がったっぽい。よくある。
エリクソンの「能力に関する3つの誤解」
能力にまつわるイメージで、以下の3つは「誤解」だとしている。
- 遺伝で決まっている(才能など)
- 時間をかければいい
- 努力すればいい
遺伝については影響はあるが小さいとしている。
結局は「正しい努力」+「十分な時間」こそが能力を育てると。
限界的練習の必要性
1万時間やってもうまくならないどころか、30年やってても2~3年の経験者に劣ること
が現実にあるという。
エリクソンの研究。約30年の経験が有る医師と、医大卒業後2~3年の医師と、手術などのパフォーマンスを比べた。
結果、30年の経験が有るベテランは劣っている事がわかった。
エリクソンはこれを、コンフォートゾーンから出ようとしなかった、上達に必要な「目的の有る練習」をしなかったから、としている。
「3つの誤解」に当てはめれば、これは「時間をかければいい」というのが誤解であることの証明にはなる。30年かけても上達してないからな。
コンフォートゾーンから出る
コンフォートゾーンは「居心地のいい領域」を指す。能力的に挑戦しない、安定してパフォーマンスを発揮できる領域。
なので前述のベテランの医者は決して怠惰ではない、と私は思う。逆に自分の体で手術の「挑戦的な練習」されるのは簡便だ。彼らが患者に対して堅実かつ誠実だったとしても、あのような結果が出るだろうということ。
逆に30年でそれにふさわしく上達してたらその医者ヤベーかも知れん。もちろん当人が「上達するための努力」をしている可能性もあるが。
転じてコンフォートゾーンが「バカになるゾーン」扱いされることもあるんだが、この様に「責任があるなら出るべきではない」とも言える。
同じく、ミスするわけには行かない+忙しすぎる場合、コンフォートゾーンから出る「余裕」がない。時間もないし、練習に必要なものも揃えられない。
出ていいかどうかは「時と場合に依る」という結論。自分がその時そこから出て良いのか悪いのかはまぁ、自分で考えるべきだろう。
ついでに言えば、世代差がある。若さじゃなくて、単に30年前のカリキュラムや知識と、現代のカリキュラムや知識との違い。
似たような話では陸上のオリンピック選手の早さは、昔と比べて対して違いはない、世界記録が更新されてるのは「靴」が進化したからだ、なんて話もある。水泳だったか、実際に効果的すぎて禁止になった水着がなかったか。
つまりは、厳密に言えば彼らは、反復により「衰えていた」ということは無いだろう、と考える。単に自分の最盛期でそのまま止まってるのだろう。現役なのだからそう考えるほうが自然だと思う。型遅れになるのは避けられないが。
閑話休題、コンフォートゾーンから出るというのは、「挑戦するような課題を自らに課す」ことを意味する。ストレッチゾーンとかラーニングゾーンと呼ばれる領域に移行する。
これは「自分なりの」目標でいい。前述の、ピアノの上手い練習で、彼らが練習にちょっとした工夫を混ぜていたように。
70%しか出さない余力を残した努力よりも100%の全力を尽くした努力が成果を出すとしている。少しハードルを上げることで、自らにそうさせる。
ハッキリ言っておくが、こうでもしないと「脳が勝手に目算で安定運用し始める」。これこそがいくらひたすら反復練習してもその内伸び悩む原因だ。もう成長のための訓練メニューじゃなくて「こなす作業」になってしまう。勝手に。最悪まだできてないのに安定運用モードになる。
ここからも一つ、一般的に有る「成長のイメージ」と現実が違うことが浮き彫りになる。
前述の3つの誤解のうちの2つ、すなわち時間をかければいい、努力すればいいというのは、努力を「積み立てる」つもりでいる考えだ。
例えばこれが、毎月5万円ずつ貯金するとかだったらまぁ何もおかしくはない。ただ全ての「努力」に対してこのようなイメージを持っていると、時に間違いとなる。
今回の限界的練習に依る成長とは、基本的に挑戦することで100%の実力を発揮し、自らを伸ばすような要素を持つ。「堅実な積み立て型の努力(つまり出来ることを地道に繰り返す)」とは別の、掛け捨て型(できるようになるため)の、「挑戦し続ける努力」だ。
経済学では前者がストック(貯蓄など)、後者をフロー(流通量など)と呼ぶ。フロー型の努力をするべきところで、堅実なストック型の計画や実行をして「何かを積み立てているつもり」でいても大した成果は出ない。それはコンフォートゾーンにい続けることになる。
フィードバックを得る
自分の課題を知るため、成長を知るため。
特に他者からのフィードバックについて語られているが、自分でもわかったほうが良いだろう。
簡単な方法としては、練習初日に実力を記録する。後は一週間後などの定期的に観測すればいい。
「今の自分」は、ある意味盲点となりやすい。それが基準だから、客観的な見方が難しい。成長しているのに、なんも変わっとらん気がしてくる時もある。
同様に、理想像や目標を明確に持ち、今の自分とどこが足りていないからは考えたほうが良いだろう。
つまりは過去の自分と比べて成長を知る。理想の自分と比べて課題を知る。
得たものに対しては、練習の修正などの柔軟な対応が求められる。
環境づくり
集中・専念のための。
短い練習時間であり、余力を残さず全力を出すこと。
集中できなくなったら打ち切る。「集中できる時間は限られている」とされる。「長時間やればいいというものではない」とも。3つの誤解の1つにあったね。
要するに「効果的な練習となるように意識する」こと。
また、冒頭で引用した「個別訓練環境(Practice Alone)」も意識するべきだろう。
Aloneだからな。一人で頑張れる環境。
これは、エドアルド・ブリセーニョがTEDで語ったとおり、「社会的に失敗が許されない空気が醸されている」というのも大きい。このせいでコンフォートゾーンから抜け出しストレッチゾーンに入る、すなわち「挑戦」は人前ではしづらいこととなる。
他人の目は邪魔だということ。意識してしまうことは仕方ないこととしたほうが早い。故にそれを避ける環境が必要と。
幸いにも今回になぞらえれば、効果的な練習とするため、短時間の練習時間となる。それほど無理があるわけでもないだろう。
心的イメージの形成
心的イメージは限界的練習の最大の目的とも言われている。
限界的練習と独立して語られているものでもあり、影響を相互に与えるともされる。
限界的練習をしていれば育つもの、ともされている。ややこしいね。
限界的練習では、その道の第一人者の心的イメージ(形や動作だけでなく考え方や精神面をも含む)を手本に、Try&Errorの繰り返しながら最大のパフォーマンスを得る。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jseeja/2017/0/2017_130/_pdf/-char/ja
「表面的な理解や再現じゃなく、深いところまで理解してイメージを構築しようね」みたいな感じ。
形だけなぞるのではなく、そこに至る背景や内面を知る。
あるテレビ番組で有名な野球選手が述べた 『僕の真似をすれば大リーガーになれる。』 という言葉は限界的練習によるパフォーマンスを端的に表わしたものといえる。
ここでの真似とは、ただ単にバッティングフォームなどを真似るのではない。タイミングの取り方、インパクトの瞬間に最大の力が伝わるなど、動作の裏にある概念や精神面まで含まれる。手本となる心的イメージを意識して、即時フィードバックを伴った Try&Error による解釈の努力の繰り返しによって、自分流に変える技能の再構築による学びが限界的練習である。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jseeja/2017/0/2017_130/_pdf/-char/ja
この「イメージ」は、相当量の知識と経験の集合体となるだろう。空想的なものではない。
同じく野球選手だったか、「頭使わないと努力は裏切るよ」みたいな言があったはずだが、これを指しているとも取れる。
具体的な行動の支持を出したグループと、抽象的な指示を出したグループと、どちらがまともに動けたか、という研究が有る。結果は抽象的な支持を出したグループだった。
要するにイメージができていれば、適切に動ける。具体的な行動を意識させられると、どうしても表面的になり、ぎこちなくなる。そういった面もあるだろう。
突き詰めれば心的イメージとは事実、ルール、関係性などの情報がパターンとして長期記憶に保持されたものであり、特定の状況に迅速かつ的確に反応するのに役立つ。
あらゆる心的イメージに共通するのは、短期記憶の制約を超える大量の情報を迅速に処理することを可能にするという点である。
http://dokushokai.tokyo/archives/6693
逆に一般的にはこれらは「思い込み」みたいな感じで余計なことをする側面が大きいが。心的イメージの形成とは、そのスキルや分野に適したものへと、既存の思い込みイメージの更新・修正も含むのではないだろうか。
恐らくだが、あまり能動的に試みる部分でもないだろう。経験を通して育つ部分だ。ただし自分の現在のイメージがどのようなものかは気にしたほうがいいだろう。偏見があるとドツボにはまるし。
ゴールを明確にする
目標達成や練習の話で高確率で言われている点である。
小さな、具体的な物を目指すこと。長期的な目標は、段階的な区分けをし、小さな、具体的なもののつながりとすること。
定義を明確にする。金持ちになりたいとかガバガバなのじゃなくて、売上を何%上げるなどハッキリとしたものを。
これらはできたかどうか、近づいたかどうか、つまりはフィードバックの質に直結する。あまりにいい加減だと、できてないのに頑張ったつもりになりかねない。
「漫然とした、全体的な成長」に期待するのをやめる。何を育てるか自分でハッキリと決めること。