所謂勉強するようなこと、新しく知る/習得すること、使用する情報。その理解度。
存在を知らない
・存在を知らないから探すこと、調べることすらできない状態。「無いもの」として振る舞う。
外国人が日本に於いて、玄関で靴脱ぐことを知らないから堂々と土足で上がり込むことと、日本人が人の家に土足で上がるこむこととは状態としては全く違う。
存在を知っている
・その知識が存在することを知っている。詳しいかどうか、教えられるかどうかではなく、存在を知っている。探すこと、調べることができる。
つまりはここから自ら探し、調べ、学ぶことが可能になる。なにかに興味を持ち(存在を知って)、調べて、詳しくなる、という流れはよくあるだろう。
存在を知っているが使えない
・学習可能。調査、修練。ネットで調べる、知ってる人に聞く。
「調べればわかる」という自覚は行動範囲を広めるだろう。
思ったより難しいとか聞いてもわかんねぇとかはあるかも知れないが。
存在を知っていて使える
・個人としてはある意味ここで完結する。問題はないだろう。
「知っている」と言えること。
知らないしどこにあるかも知らない
・そりゃそうだ。
知らないがどこにあるか知っている
・必要になれば自分で知識を手に入れることが可能な状態。この状態で安心して、実際には調べないケースも多い。
いざ必要になって手に入れようとしたら思ってたのと違った、とかもあり得るから、ざっと確認程度はしておいたほうがいいだろう。
知っているがどこにあるか知らない
・どこかで聞いた話だが、どこで聞いたかわからない。みんながそう言っているが、誰も情報源を知らない。そのような状態。
・厄介なことに、情報の入手先は忘れやすい傾向が人間にはあるらしい。結構この状態にはなりやすいということになる。実際には忘れたのではなく思い出せないそうだ。
「情報の入手先」という情報は、情報本体の添え物であり、まぁ刺身の上のたんぽぽ(菊だけどなアレ)とかバランみたいなものだ。メタ知識と呼ばれる。あまり最初から注視されない傾向は高い。怪しい奴が言っていたら覚えていやすいのは、警戒度が高いからだろう。つまり「誰が言ったかが必要になるかも知れない」と感じているからこそ。それ以外はスルー気味になる。
またこの場合メタ記憶はある。つまり「どこかで確かに読んだ/聞いた」とだけは知っている感覚はある。それ自体が気の所為の可能性もあるのだが。記憶はあるが思い出せない状態。今見ているテレビに出ているタレントの名前が思い出せない、とかのあれ。
暗黙知
前述のメタ知識、メタ記憶にも関連する。身につけた知識は「利用可能状態」であることを優先して、不要なものは削られる。なくなるわけではなく、思い出せない程度に優先度が落ちる。頭の中の作業領域は有限であり、思った以上に狭い。あまり使わないものまで毎回並べたくはないのだろう。
また、判断などに於いては知識は直感的な分野で使われる。信号機の赤は「止まれ」だが、見るたびに考えなきゃわからないわけじゃないだろう。赤=止まれとの認知を我々は持っている。これが赤の意味を教わったばかりなら、思い出さなきゃわからない。対処も当然遅れる。でもすぐに慣れるだろう。この様に、直感レベルで落とし込まれるのは結構早い。
ちなみに黄色も「止まれ」だぞ。
使用する場所、もしかしたら格納される場所も異なるため、今度は逆に言語による説明は一瞬遅れることにもなりやすい。スポーツなどに於いて体の動かし方の説明で四苦八苦するとかがそうだし、自転車の乗り方を口で説明するのはめんどくさい。
言語と直感はいくらかお互いに潰し合う間柄らしく、頭でいろいろ考えるとできる動きがぎこちなくなる傾向がある。
・反対に我々が学習する際は、見て真似をするか、聞くか、読むかして学ぶかだ。この内「見る」に於いては元から非言語だ。聞く、読むという形で知った場合、その知識が本来感覚的、直感的な分野で働くべきものである場合には頭を使えば使うほど逆効果すらありえる。
・学習の目的がアウトプットだとしたら、アウトプットの性質は「行為」となる。まぁ他人に説明するとか、ここぞとばかりに詳しくない言葉使ってマウント取るとかも含めよう。
行為は「技術」と言えるだろう。即ち言葉だけではなくなる。この意味では「見る」学習の方が効率が良かったりすることもある。それこそ理論から入るより、見よう見まねの方が自転車に乗れるようになるのは早いだろう。直接体験知を得ようとする、とも言える。
数式にしたって、この問にはこの数式を、というのは問題をみてわかる必要があるし、実際迷うまでもなく使うべき数式は思い浮かぶ。まさか知っている数式を総当たりするわけじゃないだろう。それだと合ってるか間違ってるかがわからない。
どの道「判断」に連なるなら、最終的には暗黙知(非言語、説明しづらい知識)の形になるし、それが当人にとってベストな形態であると言える。そういった意味で座学とスポーツには共通点はありそうだ。反復練習はスポーツでも座学でも重要であるわけで。これこそ「使用」を目的とした直感レベルに落とし込んでいる証拠だと思う。
この時点で知識の内、俯瞰的な全体像と個人が使いやすい形とでは違ってくる。天才は教えるのが下手、というのは感覚的なものを言語化するのが難しいという話だろう。まぁ実際には頭いいんなら教え方を覚えるのも早いんじゃないだろうか。教える必要性があるならだが。
知っているが教えられない
・「できるけど言えない」。前述の通り、ある意味これが自然体でもある。
「見て学ぶ」系での習得もそうだが、読む/聞いて学んだことでも暗黙知化することで説明しづらくなることはある。
「わかってるけど言えない」または「説明してたらこっちまでわかんなくなってきた」というあれ。まぁ実はよくわかってなかったということもある。
知っていて教えられる
・理想ではあるが、厄介でもある。聞く/教わる側の一部は、知っている/できる人間は全てこれだと思いこんでいるのが厄介。態度が結構失礼になるから止めたほうが良いと思うけどなああいうの。
前述の通り自然体としては暗黙知化の方になる。認知的、技術的な「使用可能状態」。
・問題なく他者に教えられるのは改めて言語化をしたことがある場合が多い。何度も教えた経験があるだとか、書き出したことがあるだとか。
・足し算を小学生に教えるのは楽か、と問われれば、微妙な所ではある。
知識を伝えるだけならば、教えて、だめだったら、他にできることがない。何度も繰り返すか、言い方を変えるか程度か。この時点で相手の理解力ややる気にある程度は依存している。その子が足し算を習得したら教える側のおかげであるかも知れないが、教える側だけの実力とは言えない。
わからない場合にはその「わからなさ」を解決する必要があるが、それは生徒に拠って違う。加えて生徒はわからない理由を言語化できない場合は多い。
そこがわからないから教える側も言語でどの様に伝えればいいかのヒントがない、という状態にはなり得るだろう。経験上、他には通じるのにその相手にだけ通じないという場合には、相手側が変なイメージを持っていることが多い。複数に教える場合、こう言った生徒側が説明できない「何がわからないか」の知識もまた重要になる。
エジソンは幼少期、教師に向かって泥団子を2つくっつけて「1たす1は1じゃないか」と言ったらしいが、まぁこれはこれであってるだろう。体積二倍になったし。
教えるというのは相手の質にもよる。個人的には教える側が伝わるつもりで話し、教わる側が理解を目的として聞けば、あとは時間の問題だと思っている。根気もかな。逆にこの条件が破綻している場合無駄になるかも知れない。
また、質問者は質問の難易度がわかっていないことがある。プロでも調べなきゃわからんようなことを思いつきで聞いて、態度が「詳しいんだから知ってるはずだ」ではヘイト稼ぐだろうね。モラハラかな。
また、前提知識の量に拠っては絶望的な作業量にはなり得る。総じて教えるという行為の成功率は相手にかなり左右される。
以上から、「教えられるか否か」は理解度と直接の関係は無いと思う。テキスト読み上げるだけなら全くわかって無くてもできるだろう。それを人が聞いてれば「教えている」形になるっちゃなるし。
メモ
・「理解せねば実行できない」というのがそもそも怪しいといえば怪しい。鳥は航空力学知らんだろう。DNAに何が書いてあるかは知らんが私は私だ。生物としては知識や技術の習得は「利用可能になること」で終わる。必要がないならそれ以上の理解度にこだわるべきではないかも知れない。
理解度は知る→習得→証明の可否の各段階があるように思えるが、実用的な習得レベルで終わって大体は構わないのではないか。
・「利用可能な知識」と「到達可能な結論」は関連しているだろう。
・これらは能動的な学習についてであり、例えば条件付けや二次受傷のような受動的学習とそれに依る変化を含まない。