フェイクニュースだとバレても意見が変わらない人
・フェイクニュースを与え、その後訂正する実験がある。被験者たちの意見の変化を見た。
参照:https://gigazine.net/news/20180306-fake-news-hard-to-correct/
一人の女性の写真を見せる。次に彼女の情報が与えられる。
結婚していて看護師として勤めている
薬を盗み出して逮捕された
2年間に渡って盗み続けた
薬を盗んだのは服を買うための金が欲しかったから
次に「誤った情報だった」として、服を金のために薬を盗んでいたという情報群に取り消し線をしたものを提示、再評価をさせた。
結果、事前調査で認知能力が高いと判断された人達ほど認識を改める傾向が高かった。
反面、認知能力が低いとされた人達は認識を改める傾向が低かった。
・認知能力低い人々を相手にするなら嘘ついた方が得ってことになる。
もちろん認知能力の高い低いがキレイに2つに分かれるわけもない。認知能力が高い人達だって認識を改めるよう「努めなければ」ならない部分があるだろう。
事故や間違いはどうしても起こる。だが一部のメディアは恐らく「わかっててやってる」。
「謝罪して訂正」したところで、フェイクニュースはそれを見た者たちの判断に影響し続ける。
印象操作が狙いだとしたら、フェイクニュースは「やったもん勝ち」ということになるな。
・ここで言う「認知能力」が何を指すのかがわからない。「語彙テスト」で認知能力を測ったらしいが、あれで何がわかるんだろうか。
認知能力の高低の差は評価の違いとして現れた。ここから考えてみよう。
情報が修正された際、低いグループは認知的にはこれに対応できていない。
高いグループは対応できた。結果「既婚者で看護師」という情報しか残らない。これに元にして「評価を改めて下す」ことができている。
逆を言えば低いグループは再評価をしていないか、出来ない。一度出した結論が未だに居残っている。
・つまりここで言う認知能力とは、内部処理・操作の能力、そしてその必要性がある状況だと認知できるか否かを指していると思われる。
頭の中の情報、感情、一度下した評価など様々なものの「情報処理」。
今回の場合、特に判断材料を再設定して、再び計算をする必要がある。意識的に。
優柔不断と偽の信念
・以上から、馬鹿ほど頭が固い。ここで言う馬鹿とは「頭使うつもりが(もう)ない」という方向の馬鹿。知力は関係ない。逆に専門家の方が陥りやすいとも言える。
また、ダニング=クルーガー効果という馬鹿ほど自己評価が高い現象もある。これも一因だろう。尤もここでいう馬鹿は一般人まで含んでいるそうだが。
大体の人間は自分は「中の上」だと思っているらしいしな。
・そんなこんなで私達は自分の印象や判断や意思を過大に取り扱う。
だがこの頭の硬さは、自分で決めたことをやり遂げるには時に必要だったりする。
フロー(集中状態)に入りやすいパーソナリティとして自己目的的、つまり自分で決めた目標にコミットすることこそが至上命題だと認識しやすい傾向が挙げられている。
コストやデメリット、リワードすら気にせず、「自分がやりたいからやる」という傾向。
ある意味馬鹿だ。基本、損得勘定しないと馬鹿扱いされる世の中だし。
でも彼らはそれをやり遂げる。やりたいから。
その時の彼らは頭が固く、一度決まったら迷わない。
これ自体は悪いこととは言えない。方向性と結果次第。
・一方利口なら「自分がどれだけわかっていないか」を知っている。その分自信がない。学習するが、これは見方を変えれば影響を受けやすいということでもある。つまり優柔不断に見える。
「行動力」で比べてみれば、馬鹿よりも消極的になる。だから「競争」では負けることも多い。
人に迷惑をかけることはかなり少ないだろう。ただ、時にそれは自分にとってやるべきこと、やりたいことにすらブレーキを掛ける。
いつまでも方針が定まらないということは、いつまでも自分を主として動けないということだ。いつまでも、状況を気にしつづけることになる。
どうせやるなら悩まないほうが得だし、手をつけるには速いほうが良い。この点で考えると、決まったことに悩むのは非生産的だとは言えるだろう。そうそう簡単に割り切れもしないが。
・この優柔不断さは相手を選ぶべきだと考える。つまり自分より詳しい者ならば聞くべきだろう。得だし。
ただこれが拡大し、「自信のなさ」となってしまうことがある。この状態は、自身の過小評価とともに、他人の過大評価をしている。
こうなると門外漢の思いつきにまで振り回されることになる。これはよろしくない。
この際は、相手を値踏みするべきだね。
ともかく、優柔不断や自信のなさは、「柔軟性」と呼べるまで昇華させる必要はあるだろう。
「君子は豹変す」という言葉もある。意見が変わること自体は悪いことではない。
・偽の信念は、「もう迷わない」という意味では機能する。今後は行動に反映されるため、質は問われるが。
一方、「正解を選ばないといけない」というスタンスで問題を見ると、「信念」は生まれない。自分で決めることを封じて、答えを「見つけなければならない」。
行動の精度と実行力は相対的だと言えるだろう。
・「自分はもう、こう決めた」という意味での決断なら、利口である必要は別にないことにもなる。つまり決断力と頭の出来は関係ない。
厄介なことに、決断力・行動力がある人間、自信がある人間、断言する人間にカリスマを感じる心理が人間にはある。
こう言えばわかりやすいだろう。
「自分が悩んでいることに、あの人はあっさりと、堂々と、決断を下した」
まぁ、上に見えても仕方ない。でもそいつ馬鹿かもしんない。
・うまいこと両方のいいとこ取りができないもんかね。
薄々感じているんだが、今回に限らず「2つの視点」を都合よく行き来できればかなり便利なんだが。