- 「見てて恥ずかしい」みたいな感情だよ
- 親しい相手が恥ずかしいことやってると感じやすいよ
- 共感と言われているけれど、ぶっちゃけ共感じゃないよ
- その証拠に、その「恥ずかしい」の基準は観察者当人のものだよ
・「人のことを自分のことのように感じる」のは、一般には良いことだと言われる。実際には微妙なところ。
・「共感性羞恥」って言ってる奴を見ると恥ずかしいというメタ共感性羞恥もあるようだ。
共感性羞恥とは
・一般的な意味としては、恥をかいた人を見た時の「見てるこっちが(も)恥ずかしい」という心理を指す。
恥をかいた人が別にいて、それと同じ感情を持つから共感。恥ずかしいから羞恥(しゅうち)。
共感性羞恥心と呼ばれることもあるようだが、そっちの方が割りと正しい表現かもしれない。これ自体は体質などではなく、感情。感じやすい人はいるけど。
・読み方は「きょうかんせいしゅうち」。
英語では色々あり、
- empathic(共感的) embarrassmen(困惑/きまり悪さ)
- vicarious(他人の経験を想像して感じる/身代わりの) embarrassment
- secondhand(中古の/他に元々の所有者がいる) embarrassment
共感性羞恥は比較的昔から研究されており、1987年にmillerがempathic embarrassment という論文を書いたのが始まりとされている。
本質的には vicarious が一番近いと思う。後述するが、この感情は「共感と言えるのか」との問題がある。
共感性羞恥心あるある
- テレビのドッキリや滑った芸人が見てられない
- 人が怒られてるのを見るのが苦手
- アニメやドラマの「調子に乗るキャラ」が苦手(後で恥をかくから)
- 告白シーンとかも無理
- YouTuberとか見れない
- 「歌ってみた」とか「踊ってみた」とか見れない
よしじゃあホラゲーやろうぜ。
・全体的にそれっぽい状況の他人を見た時。可能なら目をそらすなり場面をスキップしたりするようだ。
動画系は、上手ければ平気らしい。素人が頑張ってるくらいだとキツイそうな。
・この時点で気づくだろうが、対象が恥をかいていることに共感しているもの、これから恥をかくであろうと予想しているものなどがある。後者はやっぱり共感と言いづらい所がある。まだ本人が恥かいてないので。
「対象を見ている観客の視線がもし自分に向いていたら」という被害妄想的なのも混ざってるように思えるが。
共感性羞恥の割合
・心理現象なので病気でも体質でもない。感受性が高ければ共感性羞恥も感じやすいだろうが。HSPは感じやすいと言われることは見かけるね。
・某番組の調査では10%程が経験があると答えたそうだが、実際にはもっといるだろう。
例えば共感性羞恥の研究で使われた質問だが、「家族が公衆の面前でズボンのチャック全開だった」場合に、自分が恥ずかしいと思うか思わないか。これが10%しかいないとは思わないな。
まぁその番組の質問がどんなんだったかによるだろう。質問の仕方で割りと変わったりする。
・元からセカンドハンドストレス(受動ストレス)と言って、他人のネガティブな感情に影響を受けてのストレスはある。
共感性羞恥を感じさせるような「スベってる人」を指して「痛々しい」あるいは「イタイ」と言ったりするのも、実際何かしら感じているからかもしれない。脳はストレスを感じると痛みと同じシグナルを発するので。
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共感性とは
・一般的には人間味あふれるよろしいものと認識されている。実際の所は、それを感じた後の言動次第って感じ。
・心理学的には大きく分けて2種類ある。
・情緒的共感は、今回の共感性羞恥のように「相手と同じものを感じている」と本人に自覚されるもの。共感の感情面。他人事で我を忘れるリスクも有る。
・認知的共感は、相手の立場を自分に置き換えてシミュレート的に理解を試みる。結果、まるで自分自身のものであるかのように相手の気持を知る。
この上で「自分がシミュレートしている自覚」を失わない。自分が感じているものが推論、仮説、想像だという自覚と責任を持つ。共感の理性面。
要するに、相手との一体化/同一化をするのが情緒的共感で、それはやらないのが認知的共感。
・実際の区別でわかりやすい例としては、「泣いている赤ん坊とその母親」の話が良いだろう。
・母親が赤ん坊と一緒になって泣くのが情緒的共感。意味が殆どない。
大抵の場合、共感するのが嫌な人は認知的共感を想定しており、この非生産性にうんざりしている。
まぁカウンセリング的な効果がある場面もあると思うんだけどね。人は孤独だと思うとやけっぱちになるし、このような「共有」により孤独感が和らぐこともあるのだろう。
・母親が「赤ん坊は何か泣くようなことを感じている」と考えるのが認知的共感。これなら食事や下の世話を確認したり、不安なのだろうとあやしたりするなどの「まっとうな対応」に繋がる。
「同情」と「思いやり」の違いって言ったほうが早いかもしれない。
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・また、敵意や悪意により共感能力はかなり薄れる。まぁする筋合いもない者も実際いる。
同情的な人は比較的優しいのは大体合ってるだろう。彼らが相手の心配をする場面は、競争主義者がニヤける場面である。それよりはマシという意味では。
しかし、このような「優しい人」が悪人を匿い、さらなる被害を齎すこともやはり多い。同情が侮辱と取られる文脈もある。
羞恥心とは
・羞恥心の意味は恥ずかしいと感じる気持ちや、恥じらいの気持ちを指す。恥に纏わる気持ち。
・これも結構研究されている概念。
基本的に「誰かの視線」を意識して発生する感情とされている。この「誰か」には想像上の他人が含まれる。
タニンの目
共感性羞恥には、
①観測者(共感性羞恥を感じる当人)
②対象者(恥ずかしい目にあっている、または観測者が恥ずかしいと思う行為を行う)
③観測者が認知または想像する、対象者を恥ずかしいと思う他者
の要素が、考えられる。
①が②を恥ずかしいと思う理由が、「③がそう思うだろう」と想像したからである余地はある。
まぁこの③は①の想像上のものであり、実質的に③は①の推論である。
・フィリップ・ジンバルドーによるシャイネスなる概念も、「他者から評価されると予想すること(あるいは実際に評価されること)による対人不安や対人抑制をもたらす感情、または行動症候群と定義される。
人目を気にして萎縮するとか、我慢するとか、過度に良い子になるとか。ジンバルドーによれば、日本人は元からこれが高い傾向にある。
・この「人目」、他人についてだが、井上(1977)では3段階に分けられる。
- ミウチ:親密
- セケン:中間的
- タニン:見知らぬ他者
この内、(共感性羞恥じゃない)羞恥心に関してはセケンに対してが最も高く感じるとされている。親密ではないが関わりがあったり、こちらのことを知っているなどの相手。
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・共感性羞恥の場合、感情移入する相手はミウチ、つまり親しいほど起こりやすいとされている。
ただ、「それを見る目」のモデルはやはりセケンだろう。
ここから、「嫌な見方/評価をする奴」が自分の中の「これは恥だと認識する部分」のモデルになっている可能性はある。
共感能力ではなく、そのような者に見られたらどうなるかという「社会的な恐ろしさ」を想像しているのかもしれない。
ちなみにセケンのイメージに一番近いのはマスコミらしいよ。ゴシップからは距離を取ったほうがいいかもね。
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誤用か正しいのか微妙なライン
・例えば大声で歌ってる音痴な奴を見て恥ずかしいと思う。本人は気持ちよく歌ってる。毛ほども恥ずかしいと思ってない。
この状況でこっちが感じた「恥ずかしさ」は、共感性羞恥と言えるか否か。
・そもそも「共感」と言っても脳と脳が繋がってるわけじゃないので、元から「想像」である。
後述するが、先に「人を見て、自分の基準で勝手に恥ずかしいと思う心理」があり、元となった人物も恥ずかしいと思っていた場合に後付で「共感」と呼ばれているだけだ。
実際、共感性羞恥と言う呼び名を改めて「観察者羞恥」と呼び直している研究はある。後述。
この意味では、「対象を見て自分のことのように恥ずかしいと思う」こと自体が観察者羞恥であり、観察者羞恥は共感性羞恥なので、共感性羞恥と呼べる。めんどくさい。
このページでは「共感性羞恥」で話を進める。
共感性羞恥を感じやすい人の特徴と原因
・厳密に言えば共感じゃなくて感情移入している。「自分があそこにいたら」と想像していたり、そこにいる人と同一化している。
・繰り返しになるが、多くが感じる心理である。このため特徴や原因と言っても誰でも持ってるものになる。
・大きな原因は2つある。
①相手と心理的距離が近い
②恥に敏感である
相手と親しい または好ましく思っている または自分と似ている
・共感性羞恥は感情移入に近い。親しい仲であるほど感じる余地が大きいことが研究で明らかになっている。
このため親しみを感じている、あるいは感情移入できる、自分と共通点があるなどでは特に感じやすい。
・ショートレポートの『共感的羞恥と心理的距離』では、学生75名(女性)を対象とした調査を行っている。
特定の恥ずかしい場面と、当事者が家族/友人/見知らぬ他人だった場合のセットで、どのくらい観察者である自分が恥ずかしいと感じるかを調査した。
場面は、
- 大勢の前でできるといったのに実際にはできなかった時
- 好きな人を歯の浮くような台詞で口説いている時
- よそ見をして歩いていたら扉にぶつかった時
- 慌てて駆け込んだ電車がすぐに出発しなかった時
- 電車の中でふと見ると、ズボンのチャックが空いていた時
- 大勢の人がいるところで名前を呼ばれて返事をしたら、人違いだった時
繰り返すが、誰かがこのような恥をかいた場面を見た時に、自分がどう感じるかの調査。
で、結果が全て、家族>友人>見知らぬ他人の順に恥ずかしさを感じると回答されている。心理的距離感と比例したということ。
・反対に共感性羞恥をよく感じ、対象に共通点が無いようなら、恥への感度がかなり高いか、自我が弱い可能性もある。後述。
「恥」に敏感
・失敗したくない、傷つきたくないとの思いが強い。「恥への恐れ」が、恥に対しての感度を上げる。
まぁ人間大体そんなもんなので。だから「見てて恥ずかしい」って感情も大抵とシェアできるわけで。
「恥知らず」が時に自分の道を見出し、勝利を収めることもある。
恥は抑制として働く。要る時もあれば、要らん時もある。
「恥」に纏わる心理は色々ある。「日本人は特に強い」と言われているものが結構ある。
過敏型自己愛
・自己愛と言えば一般にはクソ野郎を指すが、自己愛の病理(自己愛自体は誰にでもある)は2つに分けられる。
誇大型と過敏型。前者はイメージ通りの自己愛。後者はむしろ人目を気にするパーソナリティになる。
・過敏型は「過剰警戒型」とも言われ、日本人はこちらの方が多いとされる。
他者の反応に敏感で、抑制的で表に立とうとしない。
自分よりも他の人々に注意を向け、侮辱や批判の証拠がないかどうか、他の人々に耳を傾ける。
そして容易に傷つけられたという感情を持ち、羞恥や屈辱を感じやすい。
世間体を気にしてばかりの人をイメージすれば早いだろう。
これは対人恐怖症の原因とも見られているし、回避性パーソナリティ障害と重複する面があるとされる。
・他人を気にするが、厳密には他人が自分をどう見ているかを気にしている。だから自意識過剰ではあるわけだ。ただ、勝手にこうなる心理はある。
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拒否回避欲求
・これまた悪名高い承認欲求も、2つに分けられる。称賛獲得欲求と、拒否回避欲求。
前者はイメージ通りに名声が欲しい系のもの。そして後者は悪い評価を得たくないという「恥」に連なる欲求となる。両方強いケースもあるようだが。
違いは例えばダイエットの動機に現れる。
称賛獲得欲求の場合は「他者から良い存在として認められるため」だが、拒否回避欲求の場合は「太っていることで他者から嫌われたくないため」という防衛的な理由になる。
・中身は「拒否」という言葉よりも広く、失望や落胆をされたくない、嫌われたくないという気持ちを含める。結果、言動は控えめな感じになる(対人不安を高める)。
総じて「恥ずかしいことはしたくない」との思い。まぁそりゃそうだ。
結果、「自分が恥ずかしいと思うこと」をしている他人に感情移入するのなら、共感的羞恥と呼べる状態になる。
・これで、「本人は平気なのに見てるこっちが恥ずかしい」状態が成り立つ。個人的にはこれも共感的羞恥に含めていいと思う。元から「共感」じゃないから。
・拒否回避欲求が強いと、褒められても居心地の悪さを感じる。それほどに目立ちたくないので、注目を浴びている人間に感情移入をしたらその時点で共感性羞恥を感じる可能性がある。
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スポットライト効果
・状況次第では、現実の倍程に「他人の目」を感じる心理がある。
ギロヴィッチらが行った「スポットライト効果」の実験。
- 「研究室でアンケート記入をしてもらう」と言う名目で人を集めた
- そこに遅刻して研究室に入ってくる者を用意する(これが被験者)(いくらか注目を浴びる立場)
- 遅刻者には「その大学では絶対に着たくないという意見が大多数のクソダサいTシャツ」を着てもらっている
以上を何度か繰り返した平均では、実際にクソダサTシャツに気づいたのは、部屋にいた者の20%程。
一方で遅刻者の主観では約50%の人に気づかれたと感じている。
・これは「自分が気にしていることを、他者も同じくらい気にするだろう」という一種の認知バイアスとされる。
要するに、
- 恥ずかしいTシャツを着てることを本人が気にしている
- その「気にする強さ」がそのまま他人からの評価の推測のモデルになっている
- 自分と同じくらい問題視される/気づかれると推測する
みたいな感じになる。
・スポットライト効果は「衆目」の予測にかかるバイアスと言える。
「恥」への関心が高い場合、当然「気にする強さ」は強い。他者を見て過敏に恥に気づき、強く気にして(このあたりでもう同一化しているだろう)、「衆目」も同じように痛々しいものを見る目で見ているだろうと予測し、同一化しているから自分が恥ずかしい。
・まぁぶっちゃけてだいぶ失礼なことを脳内でやってるので、あんま表に出さない方がいいね。
殆どの人間が恥への敏感さを持っている。つまりは「こいつは自分のことを恥ずかしいと思っている」とは速攻でバレるだろう。
その分野に関心がある
・簡単に言えば人に「見て学ぶ」機能がある。これは感情移入に近い。相手が恥をかけば、同じダメージを食らう。
スポットライト同様に何らかの「関心」があれば、それに注目しやすい。
・動物にある学習機能の一つとして「ミラー(鏡)ニューロン(神経細胞)」がある。他者を見て自分のことと同じように反応する神経ネットワーク。
ヒトではまだ確認されていないが、サルの腹側運動前野と下頭頂小葉(要するに脳みそのどっかだ!)では確認されている。このため慎重にミラーニューロン仮説なんて言われたりもする。
ミラーニューロンは相手の「行動の意図」まで処理していると考えられており、同じ行動を見ても行為者の意図が違えば脳の反応する部分が違ったりする。
・主に模倣、つまりマネするための機能だとされる。まぁミラーだし。
共感に重要な役割を担うと考えられているが、「感情移入」にも同じことが言える。動作だけでなく、その背景や意図までも想像して。
・感情移入は割と簡単に、やろうと思えばできてしまう。
作り物の人間の腕を用意して、被験者に自分の腕だと思いこむよう努力させる。その後で作り物の腕にフォークをぶっ刺すと大体悲鳴を上げる。そんな実験がいくらかある。幻肢痛関係の研究だったかな。
類似した経験がある
・例えば芸人が滑りましたと。これを見て共感性羞恥を感じる人はいるわけだが、自分も同じ芸人で過去に類似した経験があったら多分もっとダメージでかいだろう。
・感情移入も共感も、実際には1つの脳による「想像/推論」である。この時の材料は、その脳の持ち主の経験や記憶。
・過去に体験した、自分が恥をかいたエピソードと酷似あるいは類似している場合、それを思い出し、よりリアルに想像できる(したくないだろうけど)。
これはほぼ「実感」レベルに強く思い出せる。というか勝手に思い出してしまうかもしれない。
・これは想起であり、厳密には共感とは言えない。
ただ、メンタルタイムトラベルと言って、想起自体が「追体験」であり、それを思い出している時にもう一度体験していることに近い状態になる。感情は改めて感じている本物だ。
・不当に、不公平に、どちらか一方に肩入れする心理の原因でもある。その良し悪しは行動が決めるだろう。
自他の境界線がはっきりしていない
・自分と他人の境界線。バウンダリーとも。この境界線が、自分の「輪郭」となる。
これがはっきりしていない状態は2種類あり、一つは自分が他人を侵食する。バウンダリーオーバーとも呼ばれ、「自分の常識は世界の常識」という態度を出したり、他者をコントロールしようとする言動をしたりと嫌われやすい。
・もう一つが、他人の領域を自分にまで広げるタイプであり、他者に侵食されやすい。時には勝手に他人の領域を自分にまで引き入れる。
さらに「他人の問題や責任と自分のそれとの区別がつかず、引き受けてしまう」ことがある。何度か出てきた「一体化/同一化」なる言葉はこういったことを含める。
・人間が他人の恥を理解できる余地は、元から十分にある。ただ、他人のそれと自分のそれとの区別がつかず、自分のものだと間違える。
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同類だと思われたくない
・対象と親しいと共感性羞恥は感じやすい。ある種の仲間意識や連帯感を持つ相手に対しての「私に恥を掻かせるな」という心理。割りと攻撃性ともなりやすいか。
親しくなくとも、自分と同じカテゴリだったり類似していると第三者が判断できそうな場合、第三者の判断を予測してこれを感じる余地はある。
・例えば、一人の日本人が海外でバカなことをやらかしたとする。で、国際ニュースになったとしよう。
まず間違いなく「同じ日本人として恥ずかしい」という言葉がどこからか出てくることだろう。勝手に日本人を代表して謝罪する者も出てくるはずだ。よく見る。
理由は色々あるだろうが、その内の一つに「一緒にされたくない」というこのバカと私は無関係ですよアピールがある。
実際に一人のバカのせいで十把一絡げに扱われることはありえるし、妥当な対応ではあるかもしれない。
・それほど悪い心理でもなく、例えば「自分は今、会社の看板を背負っているんだ」みたいな責任感とかにもなる。
代表者として見られるんだから、恥ずかしいマネはしないように、との自制になる。
共感性羞恥がない人
・誰でも感じるものではあるが、我が強いか、共感能力自体が弱いと、共感性羞恥を感じる余地もその分減る。
・別に共感性羞恥がない=共感性がないというわけでもない。
先程の情動的共感と認知的共感を思い出してもらいたいのだが、この分かれ目は「相手と一体化するか否か」が大きい。
そして認知的共感は理解に近く、一般人が見て思う「わかりやすい共感」の形を取るとは限らない。
・現に一部の人間は「気持ちはわかるが、やってることには反対だ」というのが理解できない。「気持ちがわかるのなら、やってることも賛同するはずだ」と考える。
つまり情動的共感、同一化こそが共感であると思っている。この者たちは認知的共感をする者を冷血扱いをするだろう。
・共感性羞恥を感じるか否かは「一体化するかどうか」になる。人は人、他人は他人と自他境界の区別がしっかりしている場合は、一体化が起きない共感=認知的共感となり、「羞恥」は感じないだろう。
・一般で共感能力が無いとよく言われるサイコパスやアスペルガー障害だが、アスペルガーの方は「人それぞれ」という話もある。まぁ程度もそれぞれだしな。
サイコパスにしても、やろうと思えば共感はできたという研究はある。ただし「自然には起きない」傾向があるため、勝手に発動する共感性羞恥は感じにくいだろう。
サイコパスもスペクトラムで、要するに程度があるんだが。
社会的痛み
・「痛み」の研究って昔からあるんだが、分類として肉体的痛み、心理的痛み、社会的痛みなんてのがある。
共感性羞恥は「恥」の感情であり、これは心理的と言うよりは「社会的痛み」に属する。
社会と言えば仰々しいが、今回は個人と他者との関係性くらいの意味。
共感性羞恥を感じている者にとってその場面は、「自分だったらしばらく人前に出たくなくなる」ようなものである。あるいはそもそも恥ずかしくてできない。
・ちなみに肉体的痛みと社会的痛みは同じシステムを共有している。
面白いことに鎮痛薬であるオピオイドの副作用として「他人の痛みに対する共感能力がなくなる」というものがある。
共感性羞恥を感じやすい人は、痛がり/怖がりでもあるかもしれない。
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共感性羞恥の克服法
・基本的には「目をそらせ」「見んな」でOKだと思うし、既にそうしている人が多い。
他人は他人の都合で動くしな。「私のためのあなたじゃない」「あなたのための私じゃない」なんて誰か歌ってなかったっけ。バンプだっけ。
・まぁ、緩和はできるだろうがゼロにするのは無理だろう。ヒステリー達のせいで情動的共感は悪い面が目立つが、ゼロでも困る必要なものでもあるし。
ゴールは「勝手に発生するものであり、他人の感情の推論である」との理解と、その上で「自分」がそれに対して何かする必要があるのか、その場合はどうするのかという主体を失わない行動につなげることになるだろうか。
・ただし、明らかに感情の巻き込みやこのような情動的共感による「混乱」を狙っての言動をする輩がいるため、相手がクソだと思ったら縁を切るというのも視野に入るが。
共感じゃないことを理解する
・その恥ずかしさは、あなたのものです。
・共感性羞恥が共感である証拠が見つかっていない。
共感性羞恥の研究における源流と思われるmillerは、確かにこの羞恥心を共感性と関連したものと位置づけ、その名を与えた。
しかし、桑村(2010)がこの感情と共感性の関連を検討したが、明確な関連は見つかっていない。
・反対に共感じゃないっぽい証拠が上がっている。
「恥ずかしい」の基準がその恥ずかしい当人ではなく、観察者の基準であることが研究で示されている。
観察者羞恥と羞恥得点の相関係数を算出した結果、全ての場面に強い正の相関が認められた。
観察者羞恥と役割取得・共感的配慮・個人的苦痛との関連
このことから、観察者羞恥は、自分自身の「恥ずかしい」と感じる基準によって発生することが示された。
この結果は、Miller(1987)や桑村(2009)を支持するものである。
以上から共感性羞恥は、やはり対象と「一体化」または「感情移入」し、自分の基準で恥ずかしがってると言える。
なもんでやたらと口にするのはやっぱり失礼だろうね。
自他境界を保つ
・自分の共感性羞恥がうざいなら同一化しなけりゃいい、とは言える。
このためには「自分が、他人を見ている」ということを忘れないようにしたほうがいい(自他境界の意識)。
「見ている自分」を忘れて(観測者たる自身を見失い)対象に「憑依」とでも呼べるような同一化をしてしまえば、自分だったら恥ずかしいと思うことで恥を感じる。
この状態になった者は「目をそらす」という行動選択すら出てこない。「見ている自分」を忘れているから。
まぁ創作に対してならそれほど悪いことでも無いと思うが。生身の他人に対して出るなら良かないね。
・自我が弱いというか、個が薄いと他者の感情が流れてきやすい。周りに合わせてしまうとか、気を使いすぎてしまうとか。
この問題は「感情の巻き込まれ」にかなり近い。
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・まぁ、自身が感じている羞恥心が「相手に感情移入しているからだ」と認識できるだけでも、結構自分を客観視していると言える。その場合はあまり問題も無いと思うのだが。
メモ
・共感性羞恥は社会的苦痛をもたらすものであり、まず間違いなく本人はそれを歓迎しない。
これは結構問題で、この苦痛を避けるために他者の行動や権利を侵害するようなのはよく見かける。特に「自立」「挑戦」に於いての妨害者となる余地はある。これは人によっては元から「恥への恐れ」との戦いな部分があるため。
・共感性羞恥が他者への侵害となるリスクは有る。加えて他者の行動を指して「恥ずかしい」と言うのはほとんど「嘲笑」と変わらず、これは比較的ソフトではあるが本能的な文脈では社会的制裁に近い。
真面目な話、大抵の人は「エラー」と認知したものに対してはかなり否定的/攻撃的になる。好奇心とかになることもあるが。
当然と言えば当然なのだが、その分何をどんな理由でエラーと認知するのかは自覚的でありたい。
まぁやられてもいいんじゃないかなみたいなのがいるのも確かではあるが。そこの基準もそれぞれだからね。絶対に正しいとなるわけじゃない。
こうしてみると「共感性羞恥と言ってる奴が恥ずかしい」というメタ共感性羞恥は、共感性羞恥と言っている奴にとっての対象となる人物への真実「共感」であるのかもしれない。共感性羞恥を感じている人物への共感性羞恥ではなくて。やっぱりややこしい。
・共感性の問題点を他のページを含めていくつか挙げてきたが、このような「同一化」または「憑依」が日常的に無自覚に起こることが前提となって、初めてアドラーの「課題の分離」が意味を持つと思う。
共感者羞恥の誤用
・ちょっと誤用が見られる。共感性羞恥は「感情」であり、「体質」じゃないのだが、例えば「日本人のn%が共感性羞恥であり…」みたいな使われ方を見かけることがある。
あとは「自分は共感性羞恥持ちだから~」みたいな言い方してるのがいるそうだが、まぁ誰でも感じる余地は持ってるのでイタイね。
過去に中二病界隈に二重人格が流行ってさ。それはもう痛々しかったわけだが、それに近いアトモスフィアを感じる。
と言うか中二病に感じる痛々しさは多分共感的羞恥だろう。その後の高二病が中二病要素の否定または冷笑が含まれるし。
・敏感な特性(HSP)なんかは確かにあるんだが、その場合は共感性羞恥だけが問題となっているとは考え難い。
ここまで挙げてきた通りに他人の視線への敏感さはほとんどの人間が持っている。これが並より強いなら、対人不安のほうが疑わしいだろう。ちなみに日本人の文化依存症候群(国民病みたいなもん)が、対人恐怖症だそうで。ほとんど全員が共感性羞恥と無縁ではないのではなかろうか。
共感性羞恥と観察者羞恥の違い
・ないです。同じものです。一見すると相対関係にありそうなんだけどね。
・観察者羞恥という言葉はあり、これは共感性羞恥と別物だ、と説明されることがある。
厳密には共感性羞恥を観察者羞恥と呼び直したというのが正しい。まぁ要するに同じもんだ。なので違いはないね。
・前述の通り、millerはこの羞恥心を共感性からくるものとしたが、他の研究では関連が明らかにはならなかった。このため、共感性羞恥を観察者羞恥と名を改めて研究をしていた。
なお、共感的羞恥が共感性を媒介とし発生するものかどうか明らかではないため、観察者羞恥と名を改め検討する。
観察者羞恥と役割取得・共感的配慮・個人的苦痛との関連
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